歴史を学ぶ意義とは?歴史を学ぶ3つの理由。

歴史を学ぶ3つの理由

私たちは、なぜ歴史を学ぶ必要があるのでしょうか?

学校でも歴史の授業があります。
たしかに、歴史のことは知らないよりは、
知っていた方がいいように思えます。
なんとなく大事、なんとなく知っていた方がいいというイメージがあります。

しかし、なんとなく学んだものは何の役にも立ちません
何となく歴史の勉強に時間を使うのは、
時間の無駄以外の何物でもありません。

歴史を学ぶ以上、
そこに意味を見出す必要があります。
そこで今回は、
歴史を学ぶ意義について考えてみます。

過去の失敗から学ぶ

過去の失敗から学ぶ
これは歴史を学ぶ上でよく言われることです。
たしかに、過去の事例を学べば、
同じ過ちは繰り返さないでしょう。

しかし、過去と全く同じことが起こるでしょうか?
時代や状況が違えば、
取りうる対策も変わってくるはずです。
そうなると、過去の事例と全く同じとはいきません。
では、どのようにしたらいいのでしょうか?

そのためには、
歴史の因果関係を見抜く必要があります。

歴史上の出来事は、
必ず何らかの理由があって起こります。
何の理由もなく事件が起こるわけではないのです。
この因果関係がわかれば、
状況が多少異なっても応用が利きます。

たとえば、
チェルノブイリの原発事故、
福島第一原発の事故、
この二つを例にとって考えてみましょう。
(歴史から学ぶ ~原発事故の歴史~)

どちらも原発事故ですが、
国も時期も違えば、事故に至った原因も異なります。
チェルノブイリの方は実験中に起きたヒューマンエラー。
福島第一原発は自然災害が原因です。

しかし、どちらの事故も想像力の欠如という原因が共通しています。
チェルノブイリは、
実験中に起こる事態を想定しきれていなかったこと。
福島第一原発では、
大地震や津波などの自然災害を想定していなかったこと。

このことから、
「想定が甘いと大事故を起こす可能性がある」、
「事故を起こしたくないなら、あらゆる可能性を考慮すべき」、
ということが言えます。

歴史の因果関係

このように、因果関係に注目すれば、
一つの出来事をいろいろなことに応用できます

因果関係を見抜くには、
抽象思考を活用することが大事です。
そうすることで、
同じような間違いを繰り返さずにすむようになります。

歴史を学ぶ際には、その因果関係や本質に注目することが重要だといえます。

考えないで生きていると時代に翻弄される

歴史は、考えない人間は翻弄されることを証明しています。

エネルギー革命によって企業を解雇された人たち
バブルの崩壊によって、破産や倒産に追い込まれた企業や個人
その後の不景気によって、職を失った会社員

このように、
何も考えず目の前のことに反応するだけだったり
価値判断を会社や政府などの組織に任せてしまうと、
時代の変化に翻弄されてしまうのです。

そうならないためにも、
私たちは考えて生きていかないといけません。
これから何が起こるのか?
そうなった時のために、
今何をしないといけないのか?

それを考えるのにも、
歴史が役に立ちます

今と同じような状況だったとき、
どんなことが起きたのか?


その時に翻弄されたのは
どんな人たちだったか?


逆に、時代の波に上手く乗ったのは
どんな人だったのか?

時代に翻弄されず、生き抜いていくためには
歴史を学ぶことが不可欠です。

時代に翻弄される

自分で考えることが一番重要

歴史を学ぶと、
「人間はなんて愚かなのだろう」と思うこともあると思います。
しかし、それは今だから言えることです

「今、客観的に分析しているから」
「当時と今とでは価値観が全く違うから」
「そうしなければならなかった理由があったから」

このように、さまざま背景があった上で
歴史は動いています。
歴史的には間違っていたかもしれませんが、
その時は正しかったのかもしれません。

これは私たちも全く同じことが言えます。
今、私たちが正しいと信じてやっていることは、
もしかしたら後世では、とんでもない間違いとされているかもしれません。

結局、何が正しいかなんてわからないのです。
それは、たぶん未来から今を見ても同じことだと思います。

何が正しいのかわからないのであればこそ、
自分の頭で考えることが必要です。

人から言われたことを信じてやった結果、間違いだった時と、
自分で考えてやって、それでも間違っていたなら、
後者の方がいいでしょう。

そもそも、それが正しいか間違っていたかということも
曖昧なものです。

何をしても正解でないのならば、
他人に言われたことを信じるよりも、
自分の考えを信じたほうがいい
のではないでしょうか?

今回のまとめ

歴史を学ぶ意義
・過去の失敗を繰り返さないため。
・時代に翻弄されずに生きていくため。
・自分の頭で考える重要性に気づくため。

さっそく歴史を学ぼう!

ここまで見てきたように、歴史を学ぶことで、
今よりも有利に人生を生きていくことができます。
これを機会に歴史を学んでみるのはどうでしょうか?

とは言っても、最初は何からしたらいいかわからないですよね。
そこでオススメなのが、以下の本です。


この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」 池上彰教授の東工大講義 日本篇 (文春文庫)

歴史と言うと、なにか小難しいイメージがありますよね。
しかし、この本はとてもわかりやすく歴史を解説してくれています。
歴史の事前知識がゼロでも、
すらすらと読み進めることができます。

単なる歴史の知識だけでなく、
「歴史をどう見るべきか」
と言った視点を学べるので、小論文などにも活用できるかと思います。

また、内容も戦後史に焦点を当てているので、
今の時代に絡めて興味を持って学べます。
戦国時代の歴史などは、
どこか他人事のような印象を受けますよね。

ですが、戦後史であれば時代も近く、
どうやって現代の制度や文明が作られたのかと言ったルーツに関係してきます。
だから、興味を持って学べること間違いなしです。

抽象化思考で成績アップ!

歴史を学ぶことも大事ですが、
学んだ知識を上手く使うには、頭の良さが必要です。

単純な知識を問う問題であれば、
年号や人名を覚えるだけで十分でしょう。
しかし、ランクの高い大学を目指すとなれば、
必ず論述や小論文の問題があります。
そうした問題で点数を取るためには、単純な知識だけでなく、
それを使ってものを考えることが必要です。

それが、つまり頭の良さということになるのです。

では、頭が良くなるために必要なことは何でしょうか?
それは、ずばり抽象的にものごとを考える力です。
以下の記事で抽象思考についてまとめてありますので、
興味があればぜひ読んでみてください。

成績アップ間違いなし!抽象化思考をマスターしよう!

抽象化思考は、勉強だけでなく
仕事や人生にも活きてきます

仕事や人生に正解はありません。
常にはじめてのことばかりです。
それはつまり、決まったやり方や正解が無いということです。
やり方を自分の頭で考えないといけないのです。

そうした時に抽象化思考は役に立ちます。

もし、今から抽象化思考を使いこなせるようになれば、
仕事や人生もきっとうまくいきます。
逆に今からはじめなければ、
ライバルたちに差をつけられます。

まずは、とっかかりとして
以下の記事を読んでみるのがおすすめです。
ポイントを簡単にまとめてありますので、
気負わずにさらっと読めます!

成績アップ

成績アップ間違いなし!抽象化思考をマスターしよう!

脱却できないバブル崩壊の後遺症。バブルとは何だったのか?

かつてないほどの好景気をもたらしたバブル経済。
当時は東京の地価だけで、アメリカ全土を買うことができるとも言われていました。
その好景気を忘れられず、バブルの再来を願う人も多いです。

しかし、バブルによって今の経済停滞がもたらされたという負の一面もあります。
デフレや不況は長引き、経済は回復の兆しを見せません。
では、どうしてこのような状況になってしまったのでしょうか?
なぜ、バブルは発生し、崩壊とともに日本経済に大きな傷を負わせたのでしょうか?
今回は、バブル経済についてみていきます。

バブル崩壊、バブル経済

なぜ、バブルは起こったのか?

そもそも、なぜバブル経済は起きたのでしょうか。
ことの発端は、1985年のプラザ合意です。
これは、米、英、仏、西独、日本の5か国がドルを引き下げ、円を引き上げることに同意したものでした。
貿易赤字に苦しむ米国の要請によって、締結されたのです。

円が上がってしまうと、今度は日本が苦境に立たされます。
日本は工業製品を作り、それを米国に輸出することで経済を回していました。
急に経済を支える柱を失ってしまったわけです。

この事態を受け、日銀は公定歩合を引き下げます
金利を下げることで、企業の投資を活発化、それによって景気の回復を狙ったのでした。

日銀の読み通り、企業の投資は活発化、経済は順調に上向いていきます。
景気が上向くと、土地や株式などの資産の値段が上がります
土地があれば、店や住居を立てることで、さらなる利益が見込めます。
景気とともに、企業の業績が上がれば、株式の値段も上がります。
景気のいい時は、このような金融資産、不動産資産の値段が上がるのです。

企業は、上昇する土地や株式を担保に、銀行から借り入れを行います。
そして、借り入れたお金でまた土地や株式を購入します。
このような連鎖が起こり、土地や株式の値段が実態以上にどんどん上昇していったのです。

バブルの崩壊

このような異常な事態を受け、政府は対策を講じます。
1990年には、大蔵省が不動産資産の総量規制を実施。
保有できる不動産資産に制限をかけたのでした。
これにより、不動産資産の需要が一気に減少。
それに伴い、価格も暴落しました。
その後、日銀も公定歩合を引き上げたことにより、バブルは崩壊しました。

実は、これらの対策は本当はもっと早くに実施する予定でした。
しかし、1987年にニューヨーク株式市場での株価の大暴落が起きました。
これをブラック・マンデーと言います。
これを受け、米国は日本に金利の引き上げを待ってほしいと要請します。
日本が金利を上げると、米国の資金が日本に流出してしまうからです。
日本もバブルを食い止めるために早く金利を上げたかったのですが、米国に気を使って、金利の引き上げを先送りしました。
結果的に、この判断がバブル崩壊後の後遺症をより深いものとしました

バブルの後遺症

バブルの崩壊は、様々な問題を引き起こしました。
その中でも象徴的なのが、大手金融機関の相次ぐ経営破綻です。
1997年に三洋証券北海道拓殖銀行山一証券徳陽シティ銀行の4行が破綻したのでした。

なぜ、このようなことが起きたのでしょうか?
金融機関はバブル当時、土地を担保に貸し出しを行っていました。
土地の値段が高いときは、それでも大丈夫でしたが、バブル崩壊とともに土地の値段は下落しました。
借り入れている企業も、すぐにはお金を返せません。
値上がりを予想して買った土地の値段も下がり続けていくので、返すアテもありません。
もっとひどいと、貸し付けた企業が倒産しているなんてこともあります。
つまり、バブル崩壊とともに、銀行は回収できない債権を大量に抱え込んでしまったのです。
これが、いわゆる不良債権と言われるものです。
この不良債権が、大きく膨らんでしまった結果、経営破綻を引き起こしました。

経営破綻にならなかった金融機関も、不良債権の返済に苦心します。
それにより、貸し出しが思うようにできず、経済は停滞します
バブル崩壊からのデフレや経済停滞は、今も脱出できないままです。
バブルはかつてないほどの好景気をもたらしましたが、その反動は今もなお続いています。

今回のまとめ

・バブル経済のきっかけはプラザ合意。
・バブルの正体は、実体のともなわない価格の高騰。
・膨らみ切ったバブルの崩壊は、日本経済に大きな傷を負わせた。
・日本は、今なおバブルの後遺症から立ち直れないでいる。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」 池上彰教授の東工大講義 日本篇 (文春文庫)

日本の公害、環境問題の歴史

不死鳥のごとく復活を遂げた、戦後の日本経済。
ゼロの状態から、すべてを築き上げ、世界有数の経済大国にまで成長しました。

このように、いい面が強調されることの多い戦後の日本経済ですが、もちろん問題もありました。
その一つが、公害問題です。
経済の発展が優先されすぎた結果、環境やそこに住む人たちへの配慮が欠けていたのです。

成功の歴史を学ぶことも重要ですが、歴史は失敗から学ぶものの方が多いです。
なぜなら、成功の要因はその時々で変化しますが、過ちを犯す原因はいつの時代も同じだからです。
同じ過ちを繰り返さないために、今回は公害問題についてみていきます。

公害問題、4大公害

死の川、死の海

戦後の日本経済は、目覚ましい発展を遂げました。
しかし、その裏では深刻な公害問題が発生していました

人口の増加、それに伴う生活排水の量の増加により、多摩川は死の川と呼ばれていました。

当時の状況を映した映像

下流では家庭用洗剤の泡が川面を覆い、風に乗って、まるでシャボン玉のように周辺に漂いました。
近づくと悪臭が強く、近づく人も少ない状態が続きました。

静岡県の田子の浦は、死の海と呼ばれていました。

当時の状況を映した映像

海にヘドロが堆積し、ヘドロから硫化水素が発生していました。
富士市には当時約150の製紙会社があり、排水に含まれる製紙カスは1日約3000トン。
これが海底に堆積していたのです。

このような環境汚染の他にも、四日市ぜんそく、水俣病、イタイイタイ病、第二水俣病の4大公害病が問題になりました。
今の中国と同じような状況が、かつての日本にもあったのです。

なぜ、公害が発生したのか?

公害が発生した直接の原因は、経済の発展に伴う、廃棄物の量の増加です。
しかし、これらは適切に処理が行われれば、そこまで深刻な公害問題になることはありません。
では、なぜここまで深刻な公害問題が発生したのでしょうか?
その原因を見ていきましょう。

公害に対する無知

まず、考えられるのが、公害に対する無知です。
たとえば、
「水に流せば、汚染物質は薄まる」
「煙突を高くすれば、排煙の影響は少なくて済む」
などです。
今となっては考えられませんが、当時は公害に対する常識も広く知られていませんでした。

総量規制の概念がなかった

当時にも、廃棄物の制限を定めた条例は存在していました。
しかし、それは個々の企業に対して課されたものです。
廃棄物全体の量を規制する、総量規制ではなかったのです。

企業の数が少ないうちは、それでも大丈夫でした。
ところが、経済が発展し、企業の数が増えるにしたがって、廃棄物の量が増えていきます。
個々の企業が基準値を守っても、全体の数が増えるのだから当たり前です。
そのため、全体としての廃棄物の量は、自然が分解できる量をはるかに上回っていたのです。

経済の発展を最優先とした

公害問題は、主に企業が犯人です。
しかし、当時は政治的に経済発展を優先していました。
また、地方自治体は、たくさん税金を払ってくれている企業に強くものを言えません。
さらに、その企業が地域の雇用も支えているとなれば、なおさらです。
このように、公的な機関が、企業に対して意見を言えないという事態も公害問題の深刻化に拍車をかけました

問題の解決

公害が深刻化してしまう理由として、
・公害に対する無知
・条例が実態に追いついていなかった
・自治体が企業に強く出れなかった
ことがありました。

この中でも、厄介なのが、自治体が強く出れないことです。
企業が犯人だとわかっているけれど、見て見ぬふりをするという事態になってしまうのです。
このような状況で、問題の解決の端緒となったのは、地域住民の反対運動でした。
反対運動により、メディアなどでその公害問題が報道されます
それにより、世間の関心が高まり、事態が進展し始めるのです。

しかし、公害問題は一度起こると、その被害は長く続きます
水俣病の賠償がまだ続いている事などからも、そのことがわかります。
公害の原因がなくなったから、すべて解決というわけではないのです

今回のまとめ

・戦後日本経済は、公害問題を引き起こしてきた。
・その原因は、公害に対する無知や経済成長を優先したため。
・政府や自治体に任せるだけでは、公害問題は解決しない。
・公害問題は一度起こると、その被害は長期にわたる。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」 池上彰教授の東工大講義 日本篇 (文春文庫)

戦後日本経済の歩み

戦後の日本は、主要都市が軒並み焼け野原になっていました。
まさに、何もない状態だったのです。

しかし、そのような状態から、ここまでの経済大国に成長することができました。
それは、一体なぜなのでしょうか?
今回は、戦後の日本の経済の歩みを見ていきます。

戦後日本経済

世界で唯一成功した社会主義国

日本は、しばしば世界で唯一成功した社会主義国と言われることがあります。
では、そもそも社会主義国とは何でしょうか?

社会主義国とは、社会が平等で、人々が働くことに喜びを見出す社会のことです。
ふつう、みんなが平等だと「頑張って働こう」という気持ちが湧きません。
頑張っても、頑張らなくても給料が一緒なら、頑張ろうとは思えませんよね。
とりあえず、9時から17時まで会社にいればいいか、というような感じになってしまいます。

しかし、日本ではそうはなりませんでした。
それは、国民に自分は中流であるという意識があったからです。
自分は平均よりも上であるという意識です。
それを下支えするように、給料も年々上昇していきました。
このような背景もあり、日本は社会主義国として一定の成功を収めたのです。
”一定”というのは、後にバブル崩壊などで、この制度が崩壊するからです。

度重なる好景気

戦後日本は、度重なる好景気を体験しました。
1954~1957年の神武景気
1958~1961年の岩戸景気
1962~1964年のオリンピック景気
1965~1970年のいざなぎ景気

戦後すぐは、日本のほとんどは焼け野原でした。
そのため、とにかくインフラの整備が急務でした
逆に言えば、インフラを整備するという仕事に圧倒的な需要があったのです。
つまり、常に目の前には仕事があったということです。
そして、インフラが整備されれば経済は上向く。
働けば働いたぶんだけ、日本がよくなり、自分の給料も増えるというわけですね。
このような好循環も、日本の経済成長の要因の一つです。

預金の習慣の刷り込み

経済の発展のためには、投資が必要です。
企業が設備に投資を行うことで、生産性が向上するからです。
そして、投資を行うためには、資金を得る必要があります。
その資金は銀行から借ります。
では、銀行のお金はどこから出るのでしょうか?
それは、私たちの預金です。
私たちが銀行の口座に預けたお金が、企業に貸し出されていくわけです。

経済の発展のためには、企業の投資が必要。
企業の投資のためには、銀行にお金が必要。
銀行のお金は、私たちの預金。
ということは、経済の発展のためには、国民が銀行にお金を預ける必要があります。

そこで、政府は国民に預金の習慣を刷り込もうとしました。
それが、こども銀行という取り組みです。
これは、学校に金融機関の人間が来て、預金や引き出しを行うというものです。
これにより、子どもたちは、小遣いをもらったら貯金するという習慣を身につけさせられました。

この政策は、功を奏し、日本の預金率は上昇。
企業の設備投資も上手くいき、ご存知の通り日本経済は目覚ましい発展を遂げました

しかし、バブルが崩壊し、消費が伸び悩む現在、貯金の習慣が裏目に出ています
消費をしてほしいのに、貯金の習慣がそれを妨害しているのです。
当たり前ですが、何が最善かはその状況によって大きく変わるのですね。

今回のまとめ

・日本は世界で唯一成功した社会主義国。
・度重なる好景気や、預金の習慣などが、それを下支えしてきた。
・しかし、現在はその制度も立ち行かなくなっている。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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戦後の教育の歴史。日教組と文部省の対立

私たちは、義務教育と称し、9年間学校に通うことを義務付けられています。
最近では進学率も向上し、高校、大学と通えば16年間も教育を受けていることになります。

私たちの人生のうちのこれだけの時間を占める学校教育
では、これはいったい何なのでしょうか?
どのようにして作られたものなのでしょうか?
今回は、戦後の教育の歴史を見ていきます。

教育の歴史、文部省、日教組

日教組と文部省の対立

終戦後、日本には「戦争反対」「2度と戦争をしない」という世論が高まっていました。
その影響は、教育にも波及します。
そのような状況の中で生まれた組織が、日教組(日本教職員組合)です。
「教え子を再び戦場に送るな」をスローガンに、教育の民主化、民主国家の建設をその使命としていました。
また、この組織は教職員の労働組合としての性格も持っていました。

戦後の教育史では、この日教組と文部省がことあるごとに対立しています。
それは、なぜでしょうか?

当時は、冷戦真っただ中。
GHQ配下で、資本主義陣営としての性格を有する文部省
労働組合として立ち上がった、社会主義としての性格を有する日教組
当時の冷戦の行動と全く同じです。
両者の対立は、冷戦の代理戦争として、起こるべくして起こったというわけです。
それでは、その対立を詳しく見ていきましょう。

評価制度の導入

1965年、愛媛県のある学校で、教師の勤務評定のしくみを導入しました。
勤務評定とは、一般の会社では普通に行われていることです。
評価によって、給与やボーナスの額、昇進が決まったりしますね。

この制度は、教師にはありません。
教育の成果とは、すぐに測定できるものではないです。
また、教師は生徒と一緒にいるので、評価者が常に監視できないです。
このような理由から、教師に評価制度はふさわしくないとされていました。

日教組はこの評価制度に反対の姿勢を示しました。
一方、日教組と対立関係にあった文部省は、この取り組みを高く評価します。
評価制度を全国に拡大していく方針を打ち出しました。
当然、日教組は猛反発。
これによって、日教組と文部省の間で闘争が起こりました
日教組は、一斉休暇(ストの公務員版)を行い、これに抗議。
文部省は、講義を行った教員約6万人を処分しました。

日の丸、君が代をめぐる分裂

文部省と日教組は、日の丸君が代をめぐっても対立をしました。
「国旗である日の丸を掲げ、君が代を斉唱することは、当然である」というのが文部省の意見。
一方、日教組は「戦争のシンボルである、日の丸、君が代は戦争を認めること、助長することにつながる」と主張します。
また、日の丸が国旗であること、君が代が国歌であると規定されていないことも、反対の根拠としていました。

これを受け、文部省は国旗国歌法を制定するようはたらきかけました。
これは、日の丸が国旗であり、君が代が国歌であることを正式に規定した法です。
国旗国歌法の制定をもって、日教組は国旗掲揚や国歌斉唱に対する反対運動を中止しました。
現在も一部、反対運動を行っている人たちがいますが、文部省と日教組の国旗、国歌をめぐる対立は、公式には終了したことになっています。

和解

このように対立を繰り返していた、日教組と文部省。
しかし、その対立も終わりを迎えます。

きっかけは、ソ連の崩壊です。
これにより、社会主義に対する幻想が打ち砕かれます。
日教組の支持母体であった共産党や社会党が、国民の求心力を失ったのです。

支持母体を失った日教組は、文部省に迎合しようとします。
当然これには、内部の反発があります。
これにより、日教組は内部分裂を始めました。
後ろ盾がいなくなったことと、内部分裂。
日教組は文部省に対立するどころではなくなりました。
自分の存続が危うくなってきたのです。

これを受け、日教組は文部省と和解をします
しかし、これによって日教組は急速に求心力を失いました
1958年には教員の86%が加盟していた日教組ですが、2011年には26%にまで低下しています。

戦後長く続いてきた、教育をめぐる対立は終わったのです。

現在の教育の問題

戦後続いてきた、日教組と文部省との対立は収まりました。
しかし、適切な教育制度が確立されたわけではありません
では、現在の教育は、どのような問題を抱えているのでしょうか?
その一部を見ていきましょう。

教育委員会の形骸化

まず、教育委員会の形骸化が挙げられます。

そもそも、教育委員会とは何でしょうか?
教育委員会とは、地方自治外ごとに設置された機関です。
戦前の教育が政治的に利用されたことを反省し、教育と政治を分離することを目的としています。
そのため、当初は政治とは関係のない地域住民が選挙で選ばれる仕組みとなっていました。

しかし、政治的な対立が目立つようになり、方針が変更。
地方自治体の首長が任命する制度になったのです。
これにより、当初の目的であった、政治と教育の分離が果たされなくなりました。
政治的機能をになう地方自治体が、教育委員会を任命しているわけですからね。

これが、今問題になっている、教育委員会の形骸化です。
これにより、地域住民の教育への関心の低下が問題となっています。

全国学力テスト

全国学力テストでも問題が起こっています。
近年実施されている、全国学力テスト。
実は、以前にも実施されていたのです。

それは、1961年の話です。
当時は、全国1位だった愛媛と香川の競争が顕著でした。
健全な競争ならば問題はなかったのですが、そうではありませんでした。

学力の低い子を試験当日に休ませる
事前に試験範囲の授業を行う
試験中に教師が成果を示唆する
このような、本来の目的を損なうような不正が横行しました
これにより、1966年には中止されています。

今行われている全国学力テストでも、同じようなことが起こっています
当時の教訓から何も学べていないということですね。

今回のまとめ

・戦後の教育は、日教組と文部省の対立を中心に回っていた。
・日教組と文部省の対立は、教育の現場で起きた、冷戦の代理戦争。
・対立は終わったが、教育に関する問題は山積み。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」 池上彰教授の東工大講義 日本篇 (文春文庫)

日韓関係。なぜ問題は解決されないのか?

日本の隣国である、韓国。
しかし、この2国の関係は良好とはいいがたいです。

では、なぜ日韓関係は、ここまでねじれてしまったのでしょうか?
今回は、日韓関係とその問題の原因についてみていきます。

日韓問題、日韓関係、日韓基本条約

国としての尊厳を踏みにじった「韓国併合」

韓国というと、反日のイメージが非常に強いです。
では、なぜそこまで日本を嫌うのでしょうか?
それには、日本による韓国併合が深く関係しています。

日本はかつて、韓国を日本の属国として扱っていました。
1910年に韓国併合を実施。
1939年には、創氏改名を行いました。
これは、名前を無理やり日本風のものに変えるというものです。
これら一連の行為が、韓国の国としての尊厳を踏みにじったと思われています。
現在の反日感情のルーツは、この韓国併合にあるのです。

終戦後の日韓関係

戦前、戦中は日本の属国として扱われていた韓国。
ですが、終戦後に日本が連合国軍の配下になると、属国から解放されます。

そして、1952年に突然、李承晩ラインを設定します。
これは、韓国が領海を一方的に定めたものです。
これにより、日本海の大部分が韓国の領海となってしまいました
近年、問題になっている竹島問題も、この時の李承晩ラインが根拠となっています。

このような状況を受け、日本政府は韓国との国交を結ぼうとします。
しかし、ここで問題となったのが賠償問題です。
韓国は、1910~1945年までの支配に対して日本に賠償を求めました
しかし、日本としては賠償をしてしまうと、かつての韓国併合が不当なものだったと認めてしまうことになります。
また、日本は敗戦時に、朝鮮半島にあった日本人や日本企業の財産を没収されています。
そして、米国はその財産を韓国に引き渡しています。
それをもって、補償問題は解決しているという立場をとったのです。

日韓基本条約の締結

お互いに譲らない中、国交の正常化は長引きます。
しかし、1965年についに、日韓基本条約が締結されます。
この賠償とともに、日本は韓国に3億ドルを無償供与、2億ドルを超低金利で貸し出しました。
この時の支援のおかげで、のちに韓国は大きく経済成長を遂げることになります。
そして、この補償をもって、韓国は対日請求権を放棄します。
つまり、これ以上戦争の時の事に関して補償を求めないということです。
これをもって、日韓の補償問題は法的には解決したことになります。

どうすれば、手を取り合うことができるのか?

このように、法的には解決した日韓問題ですが、現状を見るととても解決したとは言えません
なぜでしょうか?

今までの経緯をまとめると、以下のようになります。

・日本は韓国併合で、韓国の尊厳を踏みにじった。
・日韓基本条約に際し、多額の資金援助をした。
・これにより、保障問題は完了し、日韓間の問題はすべて解消した。

問題は、情報統制などによって、この事実がそもそも国民に知れ渡っていない、またはゆがめられていること。
もしくは、その事実を知ってもなお、納得できないということかと思います。
いずれにしても、互いが互いの意見を知らなければ、絶対に解決には向かいません。
自分の意見を主張するだけでなく、相手の意見を聞く姿勢が必要なのです。

日本も韓国も、だんだんと国力が衰えていっています。
お互いに、少子高齢化が進み、経済システムにもほころびが見え始めています。
そのような状態で、激動の国際社会を生き抜いていかないといけません。
本当にやるべきは、いがみ合うことではなく、手を取り合って協力して行く事なのではないでしょうか?

今回のまとめ

・日本は、韓国併合で国としての尊厳を踏みにじった。
・日韓基本条約で、保障問題は法的には解決している。
・それでも現実問題、日韓の関係は回復していない。
・これからの国際社会を生き抜くためにも、日韓が手を取り合う方法を考えなければならない。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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石炭から石油へ。エネルギー革命がもたらした惨事から学べること

昨今、エネルギーの転換が進んでいます
ガソリン車から電気自動車への変遷。
それに伴い、石油業界の再編が進んでいます。
また、シェールガスの採掘方法が確立されたこと。
石油の価格高騰に伴う石炭への回帰。
このようなエネルギーの変化は、これからも続くでしょう。

歴史を見てみると、エネルギーの変遷は時に惨事をもたらします
エネルギーの変遷によって、社会の構造や、経済の仕組みが変わります。
それにより、職を失う人が出てくるからです。
これらのことは、当然近い将来起こり得ることです。

では、過去にどのような惨事があったのでしょうか?
今回は、エネルギーの転換と、それによってもたらされた惨事についてみていきます。

石油、石炭、エネルギー革命

石炭→石油への転換

今では、一般的な燃料となっている石油
しかし、これが一般的になったのは、戦後のことです。
それまでは、燃料として一般的に使われていたのは石炭でした
ですから、石炭を扱う会社や炭鉱はたくさんありました。
そして、それに従事する人達も大勢いました。
石炭に関係する仕事が、経済を支えていたわけですね。

しかし、戦後まもなく(1950年頃)、中東で石油の採掘方法や精錬方法が確立されました。
これにより、石炭よりも安価で使用することができるようになったのです。
それに伴い、石炭産業は大規模な合理化や人員削減を行ったのです。
つまり、リストラが行われたのです。

エネルギー転換による混乱

エネルギー転換により、石炭の需要が減少。
それに伴い、石炭産業はリストラを敢行するしかありませんでした。

当然これには、労働者からの激しい反発がありました。
当時、大きな闘争となったのが、1959~1960年に起こった三井炭鉱(現・日本コークス工業)での労使対立です。
会社の人員整理に対し、労働組合が反対闘争を起こしたのです。

両者の間はもつれにもつれ、ついに無期限ストが実施されました。
これは会社に対してダメージを与えることができますが、同時に労働者にとってもダメージがあります。
スト中は給料が出ないからです。

ストが長引くにつれて、労働者は疲弊。
労働組合は、内部分裂を始めます
ストを断固として決行する強硬派と、働いて給料をもらいながら会社との調和を図ろうとする穏健派に分裂したのです。
その事態を見た会社は、穏健派のみに会社で働く許可を出しました。
労働組合の内部分裂を助長したのですね。

これにより、労働組合の内部闘争は激化。
自衛隊や暴力団が介入する事態に発展しました。
そして、その衝突により、ついに死人が出てしまいました
エネルギーの転換により、大きな混乱がもたらされたのです。

惨事の収集

エネルギー転換による惨事。
ついに、死者を出す事態となってしまいました。

さらなる混乱、事態の悪化を恐れ、当時の池田勇人内閣は事態の鎮圧を図ります。
中央労働委員会に、会社と労働組合の仲裁を依頼したのです。
事態に収拾をつけられなくなった会社と労働組合も、これは渡りに船とその仲裁を受け入れます。

これにより、会社は指名解雇を撤回しましたが、労働者は自発退職という形で退職することになりました。
結局、労働者の解雇を取り下げることができなかったのです。
実質的には、労働者の敗北と言えるでしょう。
しかし、なんでも会社の思い通りにいかないということを思い知らせたという意味では一定の功績はあったのかもしれません。

三井炭鉱労使対立

当時のニュース映像


三井三池労働争議 – 当時のニューズ映像

当時のニュース映像です。
組合内の分裂闘争は凄まじく、組合員の会社に対する妨害工作する様は圧巻です。
当時は一つの会社で死ぬまで働くのが当たり前でした。
その会社に入ったら一生安泰という気持ちが従業員にもあったのでしょうね。
それが急に裏切られたのだから、会社に対する憎悪は今では想像できないほど深いものだったのでしょう。
それに、転職も一般的ではありませんでした。
だから、会社を追いやられた後、どう生活していいかもわからなかったのでしょう。
そうした背景があって、闘争がここまで激化したのでしょう。

私たちが、この惨事から学べる事

エネルギーの転換による、社会の混乱の歴史を見てきました。
これらを見て、私たちはいったい何を学べばいいのでしょう?

会社や政府に言えること

そもそも、この労使間の闘争では、労働者側に勝ち目はありませんでした
エネルギー転換によって会社から仕事がなくなっているのに、従業員を減らすなというのは無理な話です。
もしその状態で従業員を減らさなかったら、結局会社はつぶれてしまうので、全員共倒れになってしまいます
だったら、一部の人間を切り捨ててでも生き残るというのは、当然の選択です。

会社側に落ち度があったとすれば、解雇する人間のその後をバックアップするような考えがなかったことでしょう。
いらなくなったから解雇する、では人間は納得できません。
その後に少しでも力になろうという姿勢があれば、ここまで闘争が激化することもなかったのではないでしょうか。

会社側に言えるのは、エネルギー転換によって大量の人員整理が必要になることを、早期に予測すること
解雇する人員のバックアップを早い段階で考えることが必要だったと思います。
ただし、これは会社にとって一切メリットがないので、自然とこのような取り組みが行われるとは考えにくいです。
ですから、そのような強制力を政府が作り出す必要があります
そして、政府自身も将来を予測し、それへの対策を考えるようにしないといけません。

私たち個人に言えること

仕事がなくなっている会社に、解雇をするなというのは、沈みかけている船に「乗せ続けろ!」といっているのと変わりません。
そんなことをしたら、みんな沈んでしまって誰も助かりません。
そして、そのような状況を誰かが助けてくれるはずもありません。
政府や会社に期待してはいけません。
ですから、私たちは、船が沈んでも大丈夫なように準備をしないといけません

具体的には、
・会社が潰れる予兆を察知するために、アンテナを高く張る。
・潰れても生きていけるように、力をつける。
ことが必要です。

常に情報を仕入れ、世の中の動き、会社の動きを見ること。
収益源を多角化し、会社だけに依存しないようにすること。
これが重要です。
これを意識しないと、沈みかけの船に乗せ続けろと訴えるような、無意味な労働闘争が始まってしまいますからね

特に今後は、技術革新のスピードがどんどん速くなっていく事が予想されます。
そのたびに、こんな闘争をしていたら身が持ちません。
しかも、もともと勝ち目の無い闘争です。
万一、勝ったとしても、その会社はいずれ潰れます。
そんなことに時間を使わないためにも、自分自身で生きていけるような力をつけることが重要ではないでしょうか?

今回のまとめ

・技術の変化は社会に大きな影響を与える。
・その影響によって、労働者は振り回されることになる。
・振り回されないために、私たちは力をつける必要がある。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」 池上彰教授の東工大講義 日本篇 (文春文庫)

「知らなかった」では済まされない。日米安全保障条約

日本の軍事を取り巻く環境は、急速に変化しています。
今年には、安全保障関連法案が可決されました。
中国はその経済成長とともに、軍備を拡大。
国際情勢に大きな影響力を持つようになっています。
また、将来的にはアメリカの国力が衰退。
現在のような、「世界の警察官」の役割を果たせなくなるとの予測もあります。

このような状況の中、私たちは日本を守るために何をしないといけないのでしょうか?
軍隊を持つべきなのか?
集団的自衛権を認めるべきなのか?
それとも、戦わないことを貫くのか?

これらのことを考えるためには、何よりもまずそのことについて知ることが必要です。
情報もなく、なんとなく感情的に考えた意見は、なんの価値も持たないからです。
今回は、日米安全保障条約についてみていきます。

日米安全保障条約

日米安全保障条約の誕生の経緯

まずは、日米安全保障条約が、なぜ制定されたのかを見ていきましょう。

日米安保保障条約とは、1951年サンフランシスコ条約が締結されていました。
これにより、日本は独立を回復しました。
しかし、それは同時に米軍が日本に駐留する名目を失ったことでもあります。

米軍が日本に駐留できなくなることは、日米双方にデメリットがありました。
当時は、冷戦。
日本から米軍がいなくなることは、日本がソ連や中国、北朝鮮などの社会主義国の脅威にさらされることを意味しました。
日本が、社会主義国になってしまうのは、米国からしたら具合が悪いです。
また、日本からしても、ようやく復興の目途が立ったというのに、混乱を起こされてはたまったものではありません。

日本を社会主義の脅威から守るためには、米軍を日本に駐留させるための仕組みが必要でした
そうして、生み出されたのが、日米安全保障条約なのです。

当時の条約は「不平等条約」だった!?

日本を社会主義の脅威から守るための日米安全保障条約ですが、日本にとって不利な点もありました。
それは、日米安全保障条約が不平等条約だったことです。

具体的には、
・米国の防衛義務が不明確
・日本で内乱が起きた時、米軍が出動できる(内乱条項)
・軍隊を駐留する権利があるが、日本が攻撃されたら必ず守るとは確約していない
などです。

日本に駐留はしているが、日本を守るわけではない。
日本国内で、米国に対して都合の悪い動きが見えたら、米軍を動かすことができる。
つまり、駐留はするけど、日本の役に立つかはわからないということですね。
それゆえに、当時の日米安全保障条約は不平等条約と言われていたのです。

不平等条約の解消

駐留はするけど、役に立つかはわからない。
これでは、米国にいいように利用されているだけです。
これを受け、不平等条約を解消したのが、岸信介です。
岸信介は、ワシントンで新しい安全保障条約を締結しました。
正式名称を、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」と言います。

これにより、以下の条件が変更されました。
・内乱条項が削除
・米国の日本防衛義務が明確化
・米国の行動に関する、領国政府の事前協議の仕組み

日本の危機に対して出動する。
米国の都合だけで動けないように、両国政府の協議の制度を設置。
これにより、不平等条約は解消されたのです。

安保の影

ここまで、安全保障条約の変遷を見てきました。
では、現在の安全保障条約はどのようになっているのでしょうか?

安保締結の頃と比べて、現在の国際情勢は大きく変わっています。
特に中国の急激な成長が顕著です。
これにより、中国は急速に軍備を拡大しています。
そのような中で、安全保障条約は東アジアの防衛線として大きな意味を持っています

このように戦後の国際情勢の中で大きな役割を担ってきた、安全保障条約。
しかし、その裏には沖縄が犠牲になっているという事実があります。
オスプレイによる安全の問題。
駐留米兵による犯罪、治安の問題。
基地周辺の騒音。
様々な問題を抱えています。

米国の庇護下に入るため。
日本の外交を有利にすすめるため。
私たちは、常に沖縄を犠牲にしてきました。
安全保障条約の重要性が今後も高まるであろう中、沖縄を犠牲にし続けていいのか?
しわ寄せを弱い方に流して、表面上とりつくろうだけで、本当にいいのか?
そのことについて、私たちは考える必要があるかもしれません

今回のまとめ

・安全保障条約は、冷戦当時、社会主義から日本を守るためのものだった。
・その実態は不平等なものだったが、岸信介により解消された。
・今後も安全保障条約の重要性は高まっていく。
・その裏には、沖縄が犠牲になっていることを忘れてはならない。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」 池上彰教授の東工大講義 日本篇 (文春文庫)

戦力?軍隊?自衛隊とは一体何なのか

日本を守っている存在である、自衛隊
しかし、自衛隊とは一体何なのか、と聞かれると上手く説明できないのではないでしょうか?

「軍隊のようであるが、軍隊ではない。」
「戦闘力を持っているが、敵とは戦わない。」
など、断片的な知識としては理解している。
しかし、一体なぜそうなっているのかは、よくわからない。
というのが、正直な感想ではないでしょうか?

現在の国際社会は、アメリカが圧倒的な力を持ち、それによって他国が監視されている状態です。
そのような状態から、しばしばアメリカのことを「世界の警察官」と言います
しかし、将来的にはアメリカの国力は衰え、「世界の警察官」としての役割を果たせなくなるかもしれないというデータがあります。
そのような状態になった時、日本は自分で自分の身を守らなくてはいけなくなります
その時に、日本国民自身が「自国を守る存在である自衛隊について知らない」ではどうしようもありません。

また、日本は戦争によって、二度と戦争をしないという教訓を得ました。
世界の状況が変わっていく中で、この思想を貫くには、やはり戦う力である自衛隊について知る必要があります。
先人たちが痛みを伴って得た教えを守るためにも、自衛隊について知る必要があります。

変わりゆく世界情勢の中で、日本を守っていくため。
先人が得た「戦争を2度としない」という思想を貫くため。
まず、私たちは自衛隊について知る必要があるのではないでしょうか?

そこで今回は、自衛隊とその歴史についてみていきます。

戦力 軍隊 自衛隊

自衛隊の起源

自衛隊とは、何なのか?
それを知るためには、自衛隊の起源を知るのが一番です。
そもそも自衛隊とは、なぜ生まれたのでしょうか?

話は終戦直後までさかのぼります。
当時の日本は、連合軍に敗れ、アメリカの統治下にいました。
GHQ指導のもと、改革が行われていたのですね。

ところが、1950年に朝鮮戦争が勃発します。
背景には、資本主義国と社会主義国による冷戦がありました。
社会主義国を少しでも増やしたい中国、ソ連が北朝鮮をそそのかし、韓国に攻撃させたのです。
アメリカからすれば、韓国が社会主義国に墜ちてしまうのは、何としても防ぎたいところです。
そのため、日本に駐留していた軍隊を派遣します。

しかし、そうなるとアメリカの間に、
「米兵がいない間に、日本が社会主義国に墜ちるのではないか?」
「日本内部で社会主義革命が起こるのではないか?」
という不安がよぎりました。
日本が社会主義国化するのを恐れたのです。

そうして生まれたのが、自衛隊の前身である、警察予備隊です。
日本は、憲法で軍隊を持つことができなかったので、このようなかたちになりました。
その後1954年には、陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊が出来上がり、今の自衛隊の体制が出来上がります。

このよに、自衛隊とはアメリカの都合でできた組織だということが言えます。

自衛隊は軍隊なのか?

自衛隊が、アメリカの要請によってつくられたことがわかりました。
では、自衛隊とは一体何なのでしょうか?
軍隊なのでしょうか?

日本国憲法では、自衛隊は軍隊とはみなされていません
なぜなら、日本国憲法では、軍隊、すなわち戦力を保持することが許されていないからです。
日本国憲法第九条で、以下のように決められています。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記されていますね。
日本は、たてまえでは軍隊を持っていないことになっているのです。
あくまで、「自国に降りかかる火の粉を振り払うための自衛手段に過ぎない」というのが日本国憲法の解釈なのです。

自衛隊は、自衛の手段なので、集団的自衛権を持ちません。
集団的自衛権とは、以下のようなものです。

他国と仲良しグループを作り、もし仲間が攻撃されたら、自国が攻撃されたとみなし、攻撃された仲間とともに敵を攻撃することができる権利。

それに対し、個別的自衛権というものもあります。

自国が攻撃されたとき、自国を防衛するために戦う権利を「個別的自衛権」といいます。

自衛隊についてまとめると、以下のようになります。
・実態はほとんど軍隊だが、憲法上軍隊ではない。
・そのため、軍隊ではなく、自衛隊と呼ぶ必要がある。
・交戦権を持たない。
・ただし、攻撃されたら、自衛のために攻撃し返していい。

自衛隊の転換期

「自衛隊は自衛の手段に過ぎない」ということがわかりました。

しかし、自衛隊は他国の紛争鎮圧の援助に行ったりしていますよね。
イラクに出兵していたこともあります。
では、なぜ自衛の手段に過ぎない自衛隊が、他国の紛争の鎮圧の援助を行っているのでしょうか?

これには、自衛隊の在り方を根本から変えるような出来事がありました。
それが、湾岸戦争です。
この戦争は、1990年にイラクが隣国クウェートを侵略したことがことの発端です。
それを受け、翌年米国を中心とする多国籍軍がイラクを攻撃、クウェートを解放しました。
日本は、当時外国に自衛隊を派遣することができませんでした。
直接援助をすることができなかったので、多額の投資をすることで貢献しました

クウェートは解放後、米国の新聞に感謝広告を掲載しました。
クウェートの解放に尽力してくれた国々に対して、感謝の意を述べたのです。
しかし、そこに日本の名前はなかったのです。

この出来事をきっかけに、
「実際に汗を流さないと、世界は認めてくれないのでは?」
という世論が高まりました。
「自衛隊も貢献活動に参加すべき」
このような国民の意見を受け、国連平和維持活動協力法(PKO協力法)が成立しました。
これにより、自衛隊は世界各地に派遣されるようになります。

自衛隊の曖昧な定義

PKO協力法によって、自衛隊は国際的な貢献活動に参加することができるようになりました。
しかし、問題があります。
それは、自衛隊が個別的自衛権しか持たないことです。

個別的自衛権とは、「自分が攻撃されたら、攻撃し返していい」というものでした。
この個別的自衛権が、自衛隊を危険にさらす可能性があるのです。
たとえば、貢献活動中に味方の軍隊、たとえばアメリカが攻撃されたとしましょう。
この場合、この攻撃によって日本も被害を受けると判断された場合、個別的自衛権が発動します。
直接攻撃を受けたわけではないが、被害を受けると判断された場合には、反撃をしてもいいのです。

しかし、このルールがまた厄介です。
何をもってして、被害を受けるかもしれないと判断するのでしょうか?
判断を迷っているうちに、本当に攻撃されてしまうかもしれません。
あるいは、アメリカにいいように使われて、必要以上に戦闘を行うことになるかもしれません。
自衛隊の定義があいまいなことが、自衛隊や日本を窮地に追い込む可能性もあるのです。

今話題になっている、「自衛隊に集団的自衛権を認めるかどうか」というのもこのあたりのことが関係しているのかもしれません。
ただ、重要なのは、集団的自衛権を認めることなのでしょうか?
「自衛隊自身や日本を守るために、柔軟な動きができるようにすること」
「他国のいいように使われないようにすること」
本当に大事なのはこれらのことです。

国際社会の中で、いいように使われないためにも、自衛隊がどうあるべきかを考えていく必要があるのではないでしょうか?

今回のまとめ

・自衛隊はアメリカの都合で生まれた。
・自衛隊に認められているのは、個別的自衛権のみ。
・PKO法により、自衛隊は国際貢献活動に参加できるようになった。
・自衛隊の曖昧な定義が、自衛隊や日本を危険にさらす可能性がある。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」 池上彰教授の東工大講義 日本篇 (文春文庫)

戦後日本から学ぶ「ゼロから這い上がる方法」

先が読めない世の中
今までの常識が通用しなくなっています。
そんな中で、生き残っていくには、今までの価値観にとらわれず、ゼロから新しいものを創り上げることが要求されます。
そんな時代が、近づいてきているのです。

日本にも、かつてそのような時代がありました。
戦争の直後です。
戦後の日本は、ほとんどの主要都市が焼け野原になっていました。
食べるものも、住むところも、何もかもが足りていない状態でした。
しかし、そのようなゼロの状態から、目覚ましい復興を遂げることができました

では、なぜそのような過酷な状況から、ここまでの復興を遂げることができたのでしょうか?
その知識はこれからの時代を生きるために、私たちにとって必要なものです。
今回は、戦後の日本の復興について考えていきます。

戦後の日本史

戦後の日本、復興の軌跡

日本は1945年8月15日に、戦争をやめることを宣言しました。
昭和天皇がポツダム宣言を受諾することを国民に伝える、玉音放送が行われた日です。
そして、9月2日に正式に降伏文書に調印されました。
これが、ポツダム宣言の受諾、国際的な意味で戦争が終結した日です。

終戦ののち、日本は目覚ましい復興を遂げました。
その復興の軌跡はどのようなものだったのでしょうか?
詳しく見ていきましょう。

終戦後の日本は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による改革が行われました。
その改革の思想は、日本を戦争しない、できない国にするということでした。

GHQは、日本が戦争に踏み切った理由を以下としていました。

・制度の不備による内需の不足
・それを補うための市場を海外に求めた
・それを実行するための軍事力を有していた

そのためGHQは、日本経済の活性化により、内需を拡大させようと考えました。
以降に説明する改革は、日本経済の活性化が、その背景にあります。
それでは、詳細な改革の内容を見ていきましょう。

・新円切替
・農地改革
・財閥解体
・1ドル=360円
・朝鮮戦争特需

新円切替

戦後はとにかく物資が足りない時代でした。
需要に対して、圧倒的に供給量が足りていなかったのです。
供給が少ないと、商品の値段が上がります。
つまり、お金の価値が下がる、インフレが起こるのです。

インフレが起こると、ものの売り惜しみが発生します。
今売るよりも、少し後に売った方が高く売れるのですから当然ですね。

しかし、当時は圧倒的な食糧不足
売り惜しみなんてされては、たくさんの死人が出てしまいます。
そのため、インフレを食い止めることが急務でした。

インフレを食い止めるために行ったのが、この新円切替です。
これは、旧円を新円に切り替えるというものです。
そして、その切り替えの間は、預金の引き下ろし額を制限するというものでした。

お金も商品と同じで、世の中に出回る量が減れば、その価値は上がります
つまり、預金を封鎖し、お金の出回る量を減らすことで、その価値を上げようとしたのです。
これにより、インフレを食い止めることができました。

農地改革

新円切替によって、インフレを食い止めることはできました。
しかし、慢性的な食糧不足は解消されていません。
そこで、GHQは農地改革を行いました。

農地改革の内容を見る前に、当時の日本の農業の実態についてみていきましょう。
かつての日本は、大地主が多くの土地を所有していました。
その土地を小作人に貸し、固定給で農業をさせていました。
これを小作農と言います。
サラリーマンの農業版といったところですね。

しかし、この制度には問題点がありました。
1つ目は、「貧富の差が拡大していくこと」です。
小作人は、地主から自分で働いたぶんよりも少ない額しかもらえません。
土地を借りて、農業をしているわけですから当然ですね。
一方、地主の方は、小作人に支払う給料よりも高い値段で作物を売ります。
小作人は働いたぶんより少ない額しかもらうことができない。
地主の方は、小作人が働いたぶん豊かになっていく。
このようにして、貧富の差が拡大していくのです。
そして、貧富の差の拡大は内需の不足をもたらしました

2つ目は、「生産性が低い」ということです。
小作人は、一生懸命働いても同じ額の給料しかもらえません。
だとしたら、一生懸命働く必要はありません。
サラリーマンで言えば、9時から17時まで働きさえすれば、後はどうでもいいといった感じでしょうか。
そのような態度で、生産性が上がるわけはありません。
これによって、日本は慢性的な食糧不足にさいなまれていました。

つまり、内需の不足と食糧問題は、小作農という日本の農業の在り方に原因があったのです。

農地改革は、この小作農を自作農へと変えるためのものでした。
自作農とは、自分の農作地を所有し、そこで農業を営む人のことです。
そのために、大地主の土地を強制的に買い取り、小作農に低価格で分配しました。
これにより、自作農が増え、食糧不足にも改善の兆しが見られるようになりました。

財閥解体

農地改革により、当面の危機は去りました。
しかし、課題は山積みです。
その一つが、経済の活性化です。
GHQは、経済の活性化を阻む要因を財閥による寡占市場にある考えました。
財閥とは、巨大なグループ企業のことです。
この財閥が市場を席巻しているため、新しい会社が生まれない。
だから、経済が停滞している。
「財閥が健全な市場の形成を阻害している」GHQはそう考えたのです。

財閥解体により、三井・三菱・住友・安田の四大財閥はもちろん、その他の大企業も対象となりました。
三菱重工も東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業に解体。
日本製鉄は、八幡製鉄・富士製鉄・日鉄汽船・播磨耐火煉瓦の4社に解体されました。
そしてこの解体で、新しい企業が成長していきました。
たとえば、日本製鉄の解体により、川崎製鉄(現・JFEスチール)や住友金属工業(現・新日鉄住金)が成長したようにです。

財閥解体により、健全な市場の形成の準備が整ったのです。

1ドル=360円

GHQは、日本の発展のためにさらなる施策を打ち出しました。
それが、1ドル=360円の固定為替レートです。
今では、為替と言えば変動性が一般的ですが、当時は固定制だったのです。

ドルから見て、1円の価値が低ければ低いほど、輸出する際に有利になります
アメリカで出回った時に、値段が安いからです。

この為替相場が決められたときは、実際の相場は1ドル=300円ほどであったそうです。
しかし、日本の復興のために実態よりも円安に設定したのです。
事実、日本は対米輸出によって、大きく発展することになりました。

朝鮮戦争特需

復興の体制が整った日本を、さらに勢いづかせる出来事が起こります。
それが、朝鮮戦争による特需です。

朝鮮戦争は、1950年6月に北朝鮮が突如、北緯38度線を越えたことから勃発しました。
戦争による物資の輸送、休暇を日本で過ごす兵士の消費活動により、日本の景気はどんどん良くなっていきます。
隣国の戦争によって、日本は大きな経済成長を遂げることとなったのです。

戦後の復興から私たちが学べる事

戦後日本の復興の流れを見てきました。
そこには様々な要因があったことが分かったかと思います。
新しいシステムの設計、各国の思惑、たんなる偶然…

では、私たちはこれらのことからいったい何を学ぶことができるのでしょうか?
ゼロから新しいものを創り上げるのに必要なこととは一体何なのでしょうか?

ビジョンをもったシステム設計

戦後の復興を見てまず思うのが、そこに明確なビジョンがあったということです。
それは、内需を拡大させるということです。
すべての改革は、このビジョンがもとなっています。

インフレを起こさないこと、食糧問題を解決すること、健全な市場を形成すること…
これらはすべて、内需を拡大させるためです。

たしかに、内需の拡大の目的は、日本に戦争をさせないような支配しやすい国にするためだったかもしれません。
しかし、明確なビジョンを持つことで、それに基づいた一貫したシステムを創り上げることができました。
そして、それによって大きな復興を遂げたのも、また事実です。

頑張れば報われるシステム

財閥解体や農地改革は、健全な市場の形成を目的としたものでした。
健全な市場とは、頑張れば報われるという市場です。

財閥が席巻する市場では、新規参入が太刀打ちできません。
小作農では、どれだけ頑張っても豊かになることができません。
頑張っても報われない社会では、誰も頑張りません。

それが、財閥解体や農地改革によって破壊されたのです。
「頑張れば報われる」
この前提が、戦後復興という過酷な大事業を行うエネルギーを日本人に与えたのではないでしょうか?

もちろん、戦後の人の並外れた使命感や努力もあったと思います。
しかし、その一方でこのシステムが戦後復興に与えた影響も無視できません。

第三者が必要なこともある

財閥解体や農地改革は、戦後の復興に大きな影響を与えました。
そして、これらの改革は、外部からの介入なしには絶対に成立しなかったでしょう。

財閥も小作農の制度も、強い者にとって都合のいい制度です。
財閥は市場を席巻し、利益を独り占めしています。
地主は、小作農を働かせることで、自分は働かなくても、財を成すことができます。

そして、制度は強い者が定めるものです。
強い者は、政治に対する影響力も大きいです。
税金をたくさん払っているんだから、自分たちを優遇しろということですね。
そもそも、親族が政治にかかわる仕事をしていたり、自らが兼任しているなんて場合もあります。
とにかく、制度は強い者の都合がいい方に作られていくものなのです。

制度を作るものが、新しい制度を作る必要性を感じていない。
しかし、今の制度ではやがて大きな問題が起こる。
そんなどうにもならない状態に必要なのが、第三者の介入です。
利害が関係ない第三者にしか、今の制度を破壊することはできないのです。

システムは刷新していかなければならない

戦後復興は、そのシステムによって成功を収めました。
しかし、そのシステムも万能ではありません

農地改革によって、食糧生産性は向上しました。
しかし、国際市場で戦う場合は、その規模の小ささゆえに生産コストが高くつきます。
つまり、安い価格で提供でないので、国際市場で売れないということです。

また、国際市場で戦っていかなければいけないという中で、企業の再編が進みました。
財閥解体で解体された企業が、再び巨大な企業グループを形成し始めたのです。
国際市場で戦っていくためには、そうするしかなかったのです。

このように、最適解というのはその時々で変わっていくものです。
一回作ったらそれで完成というものではなく、常に時代に合わせて刷新していかないといけないのです。

今の時代もシステムの刷新が必要

今の時代も、システムが時代に合わないものとなっています
人口が増加し、経済成長が続いていく…
今のシステムは、そんな状況を想定して作られたシステムです。

しかも、そのシステムは強い者に都合がいいようにできています。
終身雇用や年功序列、年金制度は、経済力のある上の世代にとって都合のいいシステムです。
また、会社という制度も株主にとって都合のいいシステムです。
このように、今のシステムを新しくしようという力が働きません

今のシステムが機能しなくなっており、近いうちに大きな問題が起こる。
しかし、システムを定める人間が、新しいシステムをつくる必要性を感じていない。
これはまさに、戦後と同じなのではないでしょうか。

戦後は、新しいシステムをアメリカが創ってくれました。
しかし、今度は自分たちでやらなければなりません
自分たちで壊し、考え、新しいシステムを創り上げる。
この大仕事を、私たちがこれからやらなければならないのです。
そのために大切なことは何か?
戦後の日本史から学べることはまだまだたくさんありそうです。

今回のまとめ

戦後の復興から学べる事
・明確なビジョンを持つこと。
・「頑張れば報われる」という感覚が大事。
・既存のシステムを壊すには第三者の力が必要なこともある。
・システムは、時代に合わせて作り変える必要がある。
・今の時代もシステムの刷新が必要。それは自分たちでしなければならない。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」 池上彰教授の東工大講義 日本篇 (文春文庫)