子どもを育てる覚悟がない者は、親になってはいけない

子育て

子どもを育てるというのは、大きな覚悟が必要な行為です。
生半可な気持ちで手を出せば、失敗し、悲惨な結果になるでしょう。
ただでさえ、過酷な作業である子育て。
それに加え現代は、子どもにのような力を身に着けさせるか、ということも考えないといけません。

今までは、それは学校に任せれば良いことでした。
学校にきちんと生かせさえすれば、最低限生きていくだけの力をつけさせることができたのです。
しかし、現代は状況が変わってきました。
そこに現代の子育ての難しさがあるのです。

学校教育では生きる力は身につかない

今の学校教育では、生きていくための力が身につきません
学校教育は、正解があることが前提です。
その前提をもとに、いかに素早くその正解を導き出すかと言うのが重視されます。

昔のように正解が決まっている時代はそれでもよかったのです。
いい学校を卒業し、いい会社に入る。
その後はまじめに働いていれば、老後は悠々自適に暮らすことができる。
そのような「正解」がある社会であれば問題はなかったのです。

しかし、現代は違います。
はじめに入った会社でそのまま一生働く、なんてことはまずありません。
会社が潰れるかもしれません。
終身雇用は崩壊し、業績悪化などで解雇されるかもしれません。
運よく定年まで勤めあげても、年金をもらえる保証はありません。
死ぬまで働き続けないといけません。

そのような時代において、正解にすがってはまともに生きることはできません。
今までの正解は通用しないのです。
どう生きるかを自ら考えないといけないのです。

正解がない社会を生きるためには、自ら考えないといけません。
その時その時の状況を判断し、どう行動すればいいのかを考える。
何も考えず、ただ受け身でいるだけでは生きることができません

このように時代は急速に変化しています。
しかし、相変わらず現代の学校教育は、ありもしない正解を求める力を鍛えようとします。
いくらその力を鍛えても、それは生きていくためにはなんの役にも立ちません。
つまり、学校に教育をゆだねるだけでは、生きるための力を育てることはできないのです。

学校に教育を委ねるな

今の学校は、生きるための力を鍛えることはできない
これは、別に新しいことでも何でもありません。
少し前から当たり前のように言われていたことです。

そのことを認識せず、いい学校に行かせたから将来は安泰、なんて思っているのだとしたら、残念ながら意識が低すぎます。
学校に行かせたから安心という時代はとっくの昔に終わったのです。
学校では、今を生き抜くために必要なことなど何一つ教えてはくれません

少し周りを見ればわかるはずです。
立派な大学を卒業したのにニート、フリーターになってしまった。
景気が悪くて、就職できない。
うつ病になって、そのまま引きこもり。
そんな事例は腐るほどあります。

時代は変わっています。
それを認識しないと、高い金をかけて教育したのにニートなってしまった、なんて悲惨なことになりかねません。
もっともそうなってしまったのは、子どもを育てるということに対して何も考えていなかった、あなたの認識の甘さが招いたわけですが。

自分の子供は自分で守る時代

これからの時代には正解がありません。
それは子育ても同じことです。

今までは高い金をかけて塾に通わせ、名門校に受からせる。
そして、その学歴を以って一流企業に就職させるのが正解でした。
何も考えず、それに従っていればよかったのです。

しかし、現代は違います。
辿るべき道はありません。
正解はどこにもありません。
子どもに何を与えてやればいいのかも誰にも分りません。
あなたが考えないといけないのです。

正解がないのは、その時代を生きる子どもだけではありません。
あなた自身も正解が無い中、子どもと真剣に向き合っていかないといけないのです。

育てる覚悟がないなら、親になるな

自分で考えるというのは辛い行為です。
考えることは非常に疲れます。
そして、それだけ苦労して出した結論も正しい保証はありません。
自分でゼロから考えるというのは、とてもつらい行為なのです。

しかし、子育てにおいてはそんなものは当たり前です。
正解に沿って手順を踏んでいけばOK、というようなものではありません。
子育てにマニュアルなんてないのです。

一人一人違っているし、環境だってどんどん変わっていきます。
その都度、親はその子にとって何が必要なのかを必死に考えないといけないのです。
そんなことは、学校にはできません。
それを考えられるのは親だけです。
そのために親がいるのです。

ただ学校に通わせるだけが親の仕事なのだとしたら、それがあなたである必要はどこにもありません
そんなものは金さえあれば、子ども一人だってできます。
居てもいなくても変わらない。
あなたである必要性が全くない。
こどもにとって、自分がその程度の存在であることは、悲しいことではないでしょうか

自分で考える、と言うのは一見大変なように思えますが、よく考えればそんなことはありません。
むしろ今までが異常だったのです。
いい学校にいかせさえすれば子育ては大丈夫、なんて考えの方がどうかしています。
少し冷静になればそんなわけがないとわかりそうなものですが。

親として、子どもに何を与えてあげられるのかを真剣に考えましょう。
そうしないと親も子供も、両方不幸になります。
その覚悟が無いのであれば、親になどなってはいけません。

「結婚して子供を持つことが人生の意味」
そんな自分の浅ましい欲求を満たすための道具として、子どもを使ってはいけません。
そんなことをしてもお互い不幸なだけですから。

学校に教育を丸投げする時代は終わった。ひとりひとりが教育について真剣に考える必要がある。

学校は、人間をパーツ化する機関
人間をパーツとした官僚機関というシステムを動かす
パーツであるためには、規格化が必要
つまり、全ての人間が同じ能力を有していること
学校によって規格化された人間は、部品のように取り換えが容易になった
壊れたら別の人間を使えばいい

しかし、現在ではそのパーツがコンピュータに置き換えられている
定型的な事務作業は、人間でなくテクノロジーが行ってくれる
規格化された人間は、どんどん仕事を失っていく

このような変化があるにも関わらず、学校教育は旧時代のまま
規格化されたパーツを生産することを目的に、カリキュラムが組まれている
もし学校に教育を全て任せてしまえば、これから先の時代生き残っていく事は難しい

現在では、そのような学校制度を変えていくような動きがある
たとえば、カーン・アカデミー
これは、動画によってオンラインで授業を行うものである
そのレベルは、MITやスタフォードのそれに匹敵する
わざわざ地元の学校に行かなくても、家で世界最高峰の授業を受けることができる

【カーン・アカデミーのホームページ】
http://sundayresearch.eu/hitoshi/sundayresearch/khanacademy_japanese/

【創業者のプレゼンテーション】

ザ・セカンド・マシン・エイジ

幼少期の親子関係が生み出す3つの歪み

人は、母親との関係を基準にそのほかの関係を定義します。
母親からの絶対的な愛を感じることで、他人の愛がそうでないことを認識できるのです。
母親の愛を基準として、その相対性によってさまざまな愛を定義していくのです。

しかし、幼少期に十分に母親から愛を受けないと、愛を判断することができなくなります。
愛を判断できないことによって、次のような問題が生じます。

幼少期

いいように使い捨てられてしまう

母親から絶対的な愛を受けたことのない人は、それ以外の愛を判別することができません。
相手が自分のことを心から愛しているのか。
それとも、ただ利用しようとしているだけなのか。
その区別ができないのです。
そのため、いいように使われて、捨てられてしまいます。

健全な人間関係が築けない

また、愛を判断できないので、他人との遠近感がわかりません。
初対面の人に対して心を開きすぎたり、逆にいつまでたっても打ち解けられなかったり。
遠近感がわからないことで、人間関係を築くことができないのです。

生きていくのが辛くなる

そして、全ての人に期待しすぎてしまうという問題もあります。
愛を判別できないため、全てを絶対的な愛と勘違いしてしまいます。
つまり、相手が自分の母親であるかのように錯覚し、そのように要求をしてしまうのです。

しかし、当然そのようなわがままが通るわけがありません。
そんなわがままは冷たくあしらわれます。
普通の人から見れば、これは当然のことなのですが、愛を判断できない人にはそう映りません。
まるで自分の母親に裏切られたかのような感情を抱いてしまいます。

そんなことを繰り返すので、生きているのが非常に辛いです。
人と接するたびに嫌な気持ちが募っていくのです。

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愛を判断できないことは様々な問題を引き起こします。
それによって、最悪の結末を迎えてしまうこともあり得ます。
幼児期にいかにその子を受け入れてあげるか。
それによって心のよりどころを作ってあげるか。
それがその子の今後の人生を大きく左右するのです。

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幼児期の親子関係が、その後の人生を左右する

その人の人生が生き辛いかどうかは、幼児期の親子関係で決まります。
親に受け入れられた経験があるかどうか。
それによって、今後の人生が大きく変わるのです。

親に受け入れられた人は、今後の人生を安心感を持って生きることができます。
その先どれだけ辛いことがあっても、その時受け入れられたという事実が支えてくれるからです。

その後の人生

しかし、そのような経験がない人は、辛いときにすがるものがありません。
自分の身一つでその困難を受け止めなければなりません。
そのような状態で生きているため、非常に辛い思いをすることになるのです。

親に受け入れられたかどうかというのが、今後の人生に大きな影響を与えることがわかりました。
しかし、親に受け入れられるかどうかというのは、自分ではどうしようもないことです。
自分がどれだけ努力したところで、結局は親しだいということになってしまいす。

では、親に受け入れられなかった人はどうすればいいのでしょうか?
運が悪かったと諦めるしかないのでしょうか。

大人になってから、その時のつらさを克服すればいいという考え方もあるかもしれません。
たしかに、その考え方は建設的なものです。
しかし、その努力やそれによって味わう苦しみは、本来経験しなくてもよかったことです。
もし、自分の親がしっかりしていたら、そのような苦労はしなくてよかったのです。
自分の責任でないことで苦労をすることはなかったのです。

ですが、現実問題、自分で解決する以外の道はありません。
運が悪かったと諦めるしかないとうのが、実際のところです。
この問題から、以下のことが言えます。

結局、自分でどうにかするしかない

幼少期に親から受け入れられなかったのは、自分の責任ではありません。
それによって今まで感じてきた生き辛さも、自分の責任ではありません。

しかし、それを言っても事実は変わりません。
その人が親から受け入れられなかったのは事実ですし、それによって生き辛さを感じるのも事実です。
ですから、まずはその事実を受け入れましょう。
「自分は親から受け入れられなかったということ」を認めるのです。
現実から目を背けるのをやめるのです。

現実から目をそむけると、余計辛くなります。
「どうして他の人と同じように生きられないのか」と苦しむことになります。

しかし、普通の人が経験する、親から受け入れられるという経験をしなかった人間が、他の人と同じように生きていけるわけがありません。
そのためには、相応の苦労をしなければならないのです。

自分の境遇から目を背けず、受け入れることで現実的な考えができるようになります。

自分の環境に感謝する

今生き辛さを感じていない人は、今の境遇に感謝しましょう。
自分の親が自分を受け入れてくれたことを感謝しましょう。
その経験をできなかった人がたくさんいる中で、あなたがそれを経験できたというのは、恵まれたことなのです。

そして、同時に周りの人に気を配ってあげましょう。
生き辛い人がいたら、話を聞いてあげましょう。
あなたの親がそうしてくれたように、その人を受け入れてあげましょう。
そうすれば、その人の生き辛さは少しでも和らぐはずです。

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既存のルートに乗せることに執着しない。その子の幸せを考えなさい。

子どものIQが低いことで悩んではいけない。
頭が悪いのは仕方ないこと。
それは、その子のせいかもしれないし、親のせいかもしれない。
頭の悪い親から、頭のいい子供が生まれるわけがない。
それにも関わらず、頭がいい子供のルートに乗せようとするから、親も子も苦しい。
親は思い通りにならないから苦しい。
こどもは親の期待に沿えないから苦しい。
身のほどをわきまえず、無理を通そうとするから、お互い辛くなる。

こどもの幸せ

視野狭窄になってはいけない。
生きるルートは一つではない。
そのルートだけにこだわりすぎないことが大事。

既存のルートに乗せようとするのは、逃げに過ぎない。
新しいルートを考えることの手間からの逃避。
それ実践することに対する不安にからの逃避。
子どもの人生に対する責任からの逃避。
親が楽をした結果、子どもが苦しむことになる。

既存のルートに乗せようとするのは、誰のため?
ほんとうに子供の幸せを願っているのか。
「自分は最低限の教育を施した」
そういった責任逃れの言い訳を作りたいだけではないのか。
幸せを願うなら、どうして子供はそれによって苦しんでいるのか?

楽をしようとしない。
子どもを育てるというのは、人ひとりの人生に対して責任を持つこと。
どうやったって楽になるわけなどない。

既存の教育。
既存の考え方。
人を育てるということに対して、まるでマニュアルがあるかのように考えている人が多すぎる。
決められた手順に沿って、決められたことをすれば勝手に育つ。
人を育てることがそんなに簡単なわけがない。
まずは、それを理解しなければならない。

人を育てるのに正解はない。
どうすれば、その子のためになるのかを真剣に考えなければならない。
既存の方法に逃げてはいけない。

人ひとりの人生に対し、責任を持つ。
その覚悟がないのならば、子どもなど産むべきではない。
子を授かるという事をもっとよく考えなさい。

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小学生にプログラミングを習わせるのはいいことなのか?

最近、子どもにプログラミングを学ばせようという動きが広がっています。
アメリカやイギリスなど海外では、プログラミングを義務教育にしようという動きがあります。
日本も例外ではなく、その動きはあります。
未就学の子どもや小学生などを対象としたプログラミング教室のようなものもできています。

このような動きの背景には、これからの時代はITが大きな力を持つということがあります。
人工知能の技術の発達や、自動運転技術などITの技術の発達は目覚ましいです。
2045年には、人工知能が人を越えるという予想もまことしやかにささやかれています。
国は、そのような未来の産業を担う人材を育成したいのです。

では、私たちは子どもにプログラミングを学ばせるべきなのでしょうか?
「時代の流れに取り残されないように…」と焦る前に、一度冷静になって考えてみましょう。

小学生、子ども、プログラミング

プログラミングを学ばせれば将来安泰か?

これからの時代は、間違いなくITが大きな力を持つでしょう。
では、プログラミングができるようになれば、これからの時代を有利に生きていく事ができるのでしょうか?

たとえば、今はグローバルの時代です。
しかし、だからと言って英語が話せる人が有利かというと、そんなことはありません
英語を話せなくても、十分食っていけます。
人より稼ぐことだって可能です。
たしかに、話せないよりは話せるほうが有利なのは間違いないです。
ですが、英語を話せるからと言って食っていけるかといったらそんなことはありません。
グローバルの時代であっても、生き残るためには英語+αが必要なのです。

これは、やがて来るITの時代でも同じではないでしょうか?
ITの時代が来たからといって、プログラミングができることがそこまで有利に働くとは考えられません。
今はプログラミングに詳しくなくてもプログラミングができる環境が整い始めています。
Googleが翻訳を行ってくれるように、自動でプログラミングをしてくれるサービスが出てくる可能性もあります。

そんな中で、必要なのはプログラミングの能力ではなく、発想力や企画力ではないでしょうか?
アイディアさえあれば、実際のプログラミングは誰かにやってもらえばいいです。
それこそ、人工知能にやってもらえばいいのではないでしょうか?

このような発想力は、プログラミングだけでなく、さまざまな経験の中で培われていくものだと思います。
プログラミングも重要な経験ではあるとは思いますが、スポーツや勉強、遊びだって重要な経験です。
プログラミングは、そのような重要な経験のうちの一つにすぎません
だとしたら、プログラミングに限らず、様々な経験を子どもにさせることが大事なのではないでしょうか?

役に立つかどうかを判断基準にしない

プログラミングを子どもに経験させること自体は、素晴らしいことだと思います。
ですが、これからの時代に必要になるからと言って、強制させるのは意味がないです。
そんな風に学んだことは、身につかず、何の役にも立ちません。

重要なのは、役に立つとか立たないとかでなく、その子が本気になれるかどうかです。
本気で何かに取り組めば、いろいろなことを学べます
それは、本気で考えるからです。
部活だって、その活動自体が役に立つわけではありません。
本気で取り組む中で学んできたことが、人生で役に立つのです。
「プログラミングができる」とか「英語を話せる」といった小手先の技術ではなく、もっと本質的な力が大事なのです。

ですから、役に立つからといってやらせるのではなく、子どもが夢中になれることを一緒に探してやることが大事なのではないでしょうか?

今回のまとめ

・時代の要請から、プログラミングの早期教育に注目が集まっている。
・しかし、プログラミングができることが、将来どれほど役に立つかはわからない。
・本当に大事なのは、人間としての本質的な力。
・それは、夢中になれることが育んでくれる。
・だから、子どもが夢中になれることを一緒に探してやることが重要。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

子どもを億万長者にしたければプログラミングの基礎を教えなさい