今は辛くても、そのうち何も感じなくなる(いい意味で)
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人間は辛くても環境に適応する
人間は良くも悪くも環境に適応する。
最初は「辛いな…」と思っていても、続けていると意外とそれが当たり前になったりする。
たとえば、私の経験で言うと、最近色々と大変なことが重なった。
最初は、それらが重くのしかかって気持ちもふさぎがちであった。
しかし、しばらく経つと特に気にならなくなったのである。
そもそも、何か大変なことがあって心を病んでしまうのは、その出来事が直接の原因ではない。
それによって不安の感情が起こるからである。
本当に大丈夫だろうか、そういえばあれをしておかないと、などと色々考えるから、脳が疲弊して気持ちが沈むのである。
私が、気持ちが沈まなくなったのは、この考えるという行為を辞めたからである。
そして、それは別に意識的に辞めたわけではない。
気がついたら考えなくなったのである。
考えなくなった3つの理由
では、なぜ考えなくなったのか。
これには以下のような理由があると思われる。
①考えても仕方ないと無意識的に理解したから
②考えすぎて心を病まないようにするための無意識的な防衛本能
③単純な慣れ
考えても仕方ないと無意識的に理解したから
何か大変なことがあった時、いろいろと考えてしまうのは、不安によるものが大きい。
このままで生活が立ち行くのかとか、これからどうしよう、とかである。
しかし、この手のことと言うのは考えてもどうにもならない。
どうにもならないというか、考えても考えなくても変わらない。
その状況を打破するためには、そんなことを考えていないでとにかく行動するしかないのである。
そのことに無意識的に気づいたから、自分を追いつめるだけの無駄な思考がなくなったのではないかと思う。
考えすぎて心を病まないようにするための無意識的な防衛本能
考えていると心が病んでくる。
そうすると何もする気がなくなる。
飯を食う、風呂に入るといった生命維持活動でさえもめんどくさくなってくる。
しかし、そうなると我々の中にある生存本能が困るわけである。
そうすると、「こいつを何とか生かさないと」、と言う風に奮起してくれる。
そのためにどうするか。
考えることをやめさせるのである。
考えることがやる気をなくす原因だから、それをなくせばまたやる気を出すだろうという理論である。
こうした防衛本能によって、考えることをやめる。
単純な慣れ
我々は不慣れなものに対し不安を感じ、いろいろと考えてしまう。
だがひとたび慣れてしまうと、それについて深く考えない。
当たり前のものとして自分の日常の一部として受け入れるのである。
この慣れと言うのは、時間経過によってその状態に遷移する。
つまり、単純に時間がたてばそれについて考えることも徐々に少なくなっていくということである。
人間とは意外と図太くできているのだなと思った。
人間追い詰められても何とかなる
このように人間は大変なことがあっても、それに適応して上手いこと生きていけるものである。
だから、いちいち何かあるたびに落ち込んだりふさぎ込んだりしてもしょうがないなと思った。
どうせしばらくすればそれはどうでもよくなるのだから。
しかし、これは冷静な状態だからこういうことが言えるのであって、実際にその渦中にいる時は、そうは思えないだろう。
まあでも一回これを経験すると、同じようなことがあっても、うろたえなくなる。
なので、一回追い詰められる経験をしてみるのもいいかもしれない。
思ってたより自分は太い人間なんだなということが理解でき、妙な自信がつく。
また、すでに大変な境遇にある人は、もう少し踏ん張ってみるといいかもしれない。
そうするとある時、それが別に大したことでないように思える瞬間がくる。
しかし、これはいいことばかりでもない。
確かに心を病まなくはなったが、別に大変な状況が変わったわけではないので。
だが、大変な状況であっても心が病んでいるのとそうでないのであれば、絶対に病んでいない方が良いのは間違いない。
正常な思考で解決策を考えればいいのかもしれない。
しかし、大変なことと言っても、自分が死ぬことほど大変なことはないだろう。
心を病んでしまうと、正常な思考ができなくなって自ら命を絶つこともある。
そう考えると、目の前にある大変なことなど別に大したことではない。
自分が死ぬのに比べたら、何も考えず放っておいてもいいのかもしれない。
すこし発散したが、何か辛いことがあったら、
「これもそのうち自分にとって大したことではなくなる」
と考えるといいだろう。
実際その通りなので。
それくらいの気持ちで生きていくのがちょうどいい。
あんまりちゃんとやろうとしても、そんなにいいことはない。