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「嫌なら逃げればいい」は果たして正しいのか

辛いことから逃げてもいいという風な風潮があるが、これは果たして正しいのか。
もちろん、辛いことを耐えた結果、命を落とすなんてことになるのは最悪であり、それは絶対に避けるべき。

しかし、逃げた後もその人の人生は続いていく。
そのためには、生きるための手段が必要。
逃げてもいいが、そのための手段を獲得できるような支援がないと、結局意味がない。

抽象的になってしまったが、具体的に考えると以下のような話である。
仕事がつらいからやめる。
経歴に傷がつき、再就職しにくくなる。
働かないと収入がない。
収入がなければ生きていけない。
命を絶つ。

仕事に限らず、学校などでも同じことである。
義務教育を修めていないのはもちろん、大学中退でも今は就職が難しい。
学校から逃れるのは構わないが、その後果たして生きていけるのか、そのための支援をどうやってするのかという考えが抜け落ちている。

なぜ、そうした現実的な視点がないかと言うと、結局は他人事だからである。
自分とは関係ない他人だから、そこまで深く考えず、「嫌なら逃げればいい」と簡単に言えるのである。
これが、たとえば自分の子どもだったらどうだろうか。
単純に「嫌なら逃げればいい」で済むのだろうか。
逃げた後、その子は自立できるのだろうか。
自分がいるうちはいいが、いなくなったとき、この子は生きていけるのだろうか。
さまざまな現実的な悩みが浮かんでくるはずである。
そうした葛藤の中で、先のことを考えたうえで「嫌なら逃げればいい」と言える人もいるかもしれない。
しかし、それと同じ以上に「(生きるために)逃げるな」と言う人もいるのではないか。

ただ逃げるだけというのは、最悪の結果を引き延ばすに過ぎない。
今逃げずに命を絶つか、今は逃げて将来手遅れになって命を絶つかの違いである。
どこで見たかは忘れたが、「一手詰めが二手詰めになるに過ぎない」というのは、言いえて妙である。

逃げるのは構わないが、その後のことも考えないといけない。
そしてそれは周りが考えるべきことである。
本人は窮地に立たされ、そんなことを考える余裕などないからである。

しかし、それは理想論に過ぎず、現実は自分で何とかしないといけない。
辛い状況から逃げも、その上でどう生きていくかを自分で考えないといけない。
その結果、「逃げても結局辛いのは一緒か」という諦めにつながることもある。

このように考えると、もはや「逃げたい」と思ってしまった時点で手遅れなのかもしれない。
もちろん、逃げてうまくいったというケースもあるかもしれないが、それはレアケースに過ぎない。
そうしたものを除けば、逃げることが選択肢に入った時点でもう手遅れなのである。

そうなってくると現実的な解としては、逃げずに立ち向かうということしかない。
辛くても我慢するか、それをうまいこと受け流す術を身に着ける、実力をつけてよりよい環境に行く。
こういった現実的な生きる力が必要になってくる。
結局はどこに行っても多かれ少なかれ辛いことはある。
だから、逃げるだけでなく、それをいなせるような力も一緒に身に着けていかないといけない。
本来はこうした支援なり、基礎力を身に着けるのを周りが手伝ってやらないといけないのだが、現実はそうでないので、それを言ってもしょうがない。
望ましくないことだが、適応できないものは淘汰されていくという原始的な社会になってしまったように思う。

カテゴリー: 生き方
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