年長者を敬うことの弊害
年長者は敬われるべきもの。
日本にはこうした価値観が存在する。
こうした価値観が醸成された背景には、日本と言うのが同質の人間の集まりの中で生きてきたことに起因する。
しかし、ここではその理由について深くは説明しない。
詳細については、こちらの記事を参照していただきたい。
今回考えたいのは、こうした「年上=偉い」の図式が生み出す弊害についてである。
「年上=偉い」の価値観は、「年下=自分より劣った存在」という考えも併せ持つ。
年上である相手を敬うのは、年下である自分は相手よりも低い存在であるということを認めていることである。
年下が自分を立てるのを当たり前だと期待することは、相手が自分よりも劣った存在であると認めることを期待することである。
この関係性の一番の問題点は、年下の人間の本心が封殺されてしまうことである。
仮に年下の人間が何か不満を感じたとしても、それは書く上である年上の人間に面と向かっていく事はできない。
それは、日本社会においてタブーであるから。
結果としてその不満は押し込められることになる。
しかし、感情と言うのは抑え込んだところで消えることはない。
いずれどこかでいびつな形で噴出することになる。
さらに、そうした理不尽な扱いを受けた年下の人間は、自分が年上になった時同じことを年下に行う。
腹いせという感情も多少あるかもしれないが、それ以上に年下に対してはそう接するものという思い込みがある。
自分たちがそうされてきたから、そうした価値観が出来上がってしまっているのである。
自分の価値観を改めて問い直すということは、ほとんどないであろう。
つまり、無意識のうちに年下の人間を取るに足らない存在だとみなすのである。
そして、これが延々と繰り返される。
これは家族にも同じことが言える。
年上である親は、年下である子どもよりも格上の存在である。
当然、子どもは親のいうことを聞くべきだし、親は子どもを矯正すべき存在とみなしている。
あたりまだが、子どもにも心はある。
何かを強制されたり、頭ごなしに否定されれば、それを拒む感情が起こる。
しかし、「子ども=取るに足らに存在」という価値観の前では、その感情が聞き入れられることはおろか、表明することすら許されない。
そうして鬱積した感情はいつか爆発し、家庭内暴力だったり、殺人という形になって噴出する。
年長者を敬うという価値観には、こうした危険性をともなう。
とくに昨今は、環境が目まぐるしく変わっている。
環境が一定である時代であれば、口うるさくても親のいうことを聞けば、それなりに安定した人生を歩むことができた。
そうなったときに「いろいろ反発もあったけど、親のいうことが正しかったんだな」と自分の中で納得することができる。
その結果、封殺された感情にも決着がつく。
しかし、今の時代はそうではない。
親のいうことを聞いても、人生が上手くいくとは限らない。
そうなった時、「自分の心を殺してまで親のいうことを聞いてきたけど、何もいいことが無かった。許せない。」という感情を抱くことになる。
人格を捨て、辛い思いを我慢したにも関わらず、何も報われなかったのである。
さらに「人生上手くいかないのは、あんたの頑張りが足りないからだ」などと言われれば、鬱積した感情が大爆発を起こしても不思議ではない。
環境が変わる中、家庭の価値観がそのままであることは、こうした危険をはらんでいる。
現代は、現実と実態の中でこうした矛盾を数多く抱えている。
こうした矛盾を一つ一つ解決していかないと、いつまでたっても生き辛いままの世の中になってしまう。
尊敬に値しない年長者に対しては一切の敬意を払わない。
それくらいの思い切りが必要かもしれない。