なぜ若者は飲み会に参加しないのか
ある共通認識を前提としたムラ社会では、その共通認識を確認することがコミュニケーションとされる。
上の人間の意見に賛同したり、ムラの行動規範にそぐわない行動をしたものを徹底的に糾弾したり。
コミュニケーションに価値を感じないのは、共通認識を確認するだけの会話に意味を感じないからではないか。
現代ではそうした共通認識の確認は大きな意味を持たない。
ムラが機能していた時代では、共通認識の確認は、互いが同質の存在であることの確認であり、それはすなわち安心につながった。
つまり、十分に意味ある行為であったということ。
しかし、ムラが機能しなくなった現代において、共通認識の確認は、形骸化したルールの復唱に過ぎず、全く無意味なものになっている。
ムラの価値観がまだ残る中、そうした行為に一定の意味があるのではないかと頭の中で考えているが、もう一方ではその無意味さに気付いている。
その矛盾が、現代のコミュニケーションに意味を感じない大きな理由ではないか。
今の若い人間が飲み会に否定的なのも、この考えで説明できる。
かつては飲み会に参加すること(共通認識を確認し合い、会社と同一化すること)が、自己の生き残りにおいて大きな意味を持っていた。
そうすることで、社内の立場が保たれ、将来についても保証されていた。
しかし、グローバル化が進み、ムラとしての会社が機能しなくなった。
そのような状況の中、飲み会に参加し、自己と会社を同一化させることにメリットがなくなってしまった。
環境の変化によって、飲み会は、無意味な共通認識を確認するだけの価値の伴わない作業に成り下がってしまった。
「最近の若者はプライベートを重視しすぎている」という声があるが、これは正しくない。
いつの時代も若者に限らず、人間はプライベート、つまり自分のことを重視している。
かつてはたまたま、飲み会に参加することが自分にとって一番都合のいい選択肢だっただけの話。
本質的には何も変わっていない。
ただ単純に環境や時代が変わっただけに過ぎない。
しかし、だからと言って飲み会に参加しなくていいのかというと、話はそう簡単ではない。
旧来の人間にとって、飲み会(共通認識の確認)は、いまだ大きな意味を持つ。
彼らがそれによって大きな恩恵を受けており、それをするのが正しい、それを若者に強制するのが正当なことだという考えがある。
また、彼ら自身が、環境の変化によってその考えが時流に適したものでないと気づいていないというのもある。
そうした前提の中で、飲み会に参加するのを断るとどうなるか。
いわゆる「村八分」が行われる。
もっと俗な言い方をすれば「いじめ」である。
「あいつは俺たちと共通認識を一にしていない。つまり異分子であり、排除すべき存在だ。」
こうした理論をもって、本人たちの中では正当な行為として、いじめが行われる。
飲み会に参加することは、自分にとって本質的に重要な意味を持たない。
しかし、目の前の現実を生きるためには、それを受け入れないといけない。
こうした矛盾を抱えて、対処していかないといけない。
現在は大きく世界の環境が変わっている。
世界が変われば、それに合った価値観が必要になってくる。
しかし、過渡期にはそうした価値観が存在しない。
旧来の価値観とこれからの価値観、旧来のシステムとこれからのシステム。
そうした矛盾するものの中で、頼るものもなく生きていかないといけない。
過渡期に生きる人間は、こうした生きづらさと向き合って生きていかないといけないのである。