b00k.jp ~積み上げ式読書ノート~
公開日:
最終更新日:2017/08/30

生き辛さの温床である、「察する」という文化。

察する文化

日本は察する文化。
相手の言動からその欲求を理解する文化。
それはまるで、言葉をしゃべれない乳児の要求を母親が察するようなもの。
それを日常生活でやり続けないといけないのだから、神経症になるのも当然。

さらにひどいことに、上の立場の人間が下の立場の人間にそれを要求するのだから、余計たちが悪い。
赤ん坊の要求を取り違えても、被害があるのは赤ん坊であり、母親に何か危害があるわけではない。
しかし、社会にはびこる察するの文化はそうではない。
下の人間が上の人間の要求を取り違えた場合、それは下の人間に対し何らかの制裁が加わることを意味する。
常に相手の顔色を窺い、それに対し適切な行動をしないといけない。
そうしなければ、自分が痛い目を見る。
こうした構造が神経症やうつ病の温床となっている。

それが親密な関係の中で行われるのならまだいい。
たとえば、家族や古くから付き合いのある近所の人など。
そうであれば、それまでに積み重ねてきた対話や信頼関係があるので、察することもできるし、間違ったとしても大目に見てもらえる。

しかし、現代社会はそうではない。
新しく入った環境で、はじめて顔を合わせる人間の欲求を察していかないといけない。
何も情報が無い状態でそれを求められる。
そして、それができるようになっても、また環境が変わればそれを繰り返さないといけない。
昨今は労働市場の流動性も高まり、そのサイクルが早くなっている。
これは大変なストレスとなる。

察するというのは非常に大きな労力を必要とする。
まず、相手の好みだったり、趣味嗜好だったり、そしてそれらがどういった言動を通じ出てくるのかといったことを学習しないといけない。
それをインプットしたら、その兆候がいつあらわれるかに常に目を光らせないといけない。
昔は、それをするだけの価値があった。
主人は自分を最後まで養ってくれることを前提としていたから。
察する対象は一人であり、不変であった。
日本文化の主従関係やひと昔前の終身雇用などでは、その前提が成り立っていた。
しかし、現代はそうではない。
察するということをするだけの意味が無いのである。
にもかかわらず、それを当たり前のように求められる。

密接な人間関係の中、そしてそれが半永久的なものであればこそ、察するという文化は機能する。
しかし、人間関係がより流動的、疎結合になっていく社会においては、それは上手く機能せず、また察する側に大きな負担をもたらす。
今ままでの察するという日本文化と、今の西欧化した社会が上手く折り合いをつけられていないことである。
そうしたいびつな状況の中を生きていく過程で不協が生じ、生き辛さが生まれる。

このような状況下で、察することができるのは、よほど優れた人間だけである。
だから、察することができなかったとしても、自分を責める必要はない。
また、察するようになる必要もない。
もちろん、自分の目指す場所によっても変わるので、一概には言えないが、察することができるようになることが普遍的に良いことだと考える必要はない。
別に察することができなくても、それはそれでいい。

大事なのは、今の社会で生きていく事が自分に対し相当な負荷をかけていることを理解し、無理をしないこと。
できる範囲でできることをすればいい。
どうせ自分の力以上のことはできないのだから、どこかで妥協しよう。


「私」を生きるための言葉――日本語と個人主義

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カテゴリー: 生き方
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