目の前の一日

生き辛いのは、ダブルスタンダードがはびこるせい。気にしないという解決法。

目の前の一日

日本の文化は、元来世間に個人が埋没する文化。
そこに個人は存在しなかった。

しかし、西欧化したことによって、社会と個人が生まれた。
制度や仕組みは変わったが、日本人自体の感性は簡単には変わらない。
そのギャップが生き辛さになる。

さらに、酷いことに学校などでは旧来の価値観を元に教育が行われる。
つまり、世間に個人が埋没するやり方。
教師のいうことは絶対であり、それに対して疑問をさしはさむ余地はない。
そうした人間は異分子と判断される。
そのような環境の中、教育が施される。

しかし、いざ社会に出ると、そこは個人の世界。
自分がどうしたかといった主体性が求められる。
社会に出るまでは、個を殺すのがよしとされていたが、いざ社会に出ると主体性を求められる。
これは一例に過ぎないが、そうしたダブルスタンダードがいたるところに存在し、そのギャップによって生き辛さが生まれる。
いわば、水槽の水を目まぐるしく変えられる魚のよう。
これでは、体や精神に異常をきたすのは当たり前。

そのような玉虫色の価値観の中で生きていくには、逆に周りに合わせないことが重要になってくる。
自分の中で生きやすい価値観を打ち立てたら、あとはそれに従って生きていく。
そうすれば、いちいち環境に合わせる努力をしなくてよい。
そのために心身をすり減らさなくてよい。

もちろん、それで生きていけば上手くいかない時もある。
しかし、完全な価値観などは存在しない。
どのような考えのもとに生きても、どこかしらで不具合は生じる。
そうであれば、そうした不具合をいちいち気にしてもしょうがない。
そもそも世界がそうした統一的な価値観のもとに打ち立てられているわけではない。
そのような世界で正解を求めるのは、出題者によって正解が変わるテストで100点を目指すようなもの。
それは不可能なのである。

まずは、自分としっかり向き合い、自分がどうしたいのかを理解する。
あとは、それに合わせて周りに気にせず生きていくことが重要。
日本人は自分の声を聴くのが苦手なので、最初は用心して、意識して聞くことが大事になってくる。
玉虫色の世界を生きるのに唯一正解があるとしたら、それは自分自身に素直に従うことだろう。


「私」を生きるための言葉――日本語と個人主義

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