「どうして私だけが…」理不尽と向き合う。
「もっとお金持ちの家に生まれれば…」
「もっと頭のいい親の元に生まれれば…」
「もっときれいに生まれていれば…」
このようにどうにもならないことに対し、憤りを感じることというのは、誰にでもあることかと思います。
貧乏な家に生まれたのも、頭の悪い親の子供になってしまったのも、自分の責任ではありません。
しかし、それによって受ける苦痛は自分が引き受けないといけません。
自分のせいではないが、それによっておこることに対しては責任を取らないといけない。
生きているとこのような理不尽がよくあります。
そうした説明のつかない理不尽を目の前にしたとき、私たちはどのようにそれと向き合えばいいのでしょうか。
今回は、理不尽との向き合い方について考えていきます。
理不尽はなぜつらいのか
自分のせいではないが、それによって引き起こされる事態は自分が引き受けないといけない。
こうした理不尽は私たちを苦しめます。
なぜ、自分だけが…
どうして、自分は何もしていないのに…
そのように考えることで、どんどん苦しくなっていきます。
例えば、貧乏な家に生まれた場合を考えてみましょう。
貧乏によって教育のレベルも下がります。
お金があれば受けるようなことができた、高度な教育を受けられないのです。
それによって、社会的地位も低くなり、収入も平均を下回る。
それによって豊かな生活ができず、常に何かに追われるような日々を過ごす。
貧乏に生まれたのは、その人のせいではありません。
その人が何か悪いことをしたから貧乏の家に生まれたのではありません。
しかし、貧乏によって受けるあらゆる苦痛、もし貧乏でなかったら受けることのなかった苦痛は、自分で受け、対処していかないといけません。
このように自分の責任ではないのに苦しまないといけない。
そうした不合理さが私たちを苦しめるのです。
罪を犯したわけではないのに、その罪を償わないといけない。
そうした納得感の欠如が私たちを苦しめるのです。
理不尽は誰のせいでもない
自分のせいではないが、苦しまないといけない。
そうした理不尽さが私たちを苦しめます。
では、一体そうした理不尽さというのは誰の責任なのでしょうか。
貧乏な家庭に生まれてしまったのは、貧乏な親が悪いのでしょうか。
もしかしたらその親の親も貧乏だったのかもしれません。
だから、親もいい教育を受けることができなかった。
そして、人並みの収入を得ることができず、貧乏になったのかもしれません。
だとしたら、悪いのは親の親でしょうか。
親の親にも同じことが言えるかもしれません。
このように考えていくと、きりがありません。
つまり、誰が悪いという話なのではないのです。
いろいろな偶然が重なって今の状況があるのです。
あえて、原因を考えるのであれば、それは社会のせいではないでしょうか。
社会に歪みが存在し、それによって弱い方向に力が流れていく。
それによって、今自分に負担がかかっている。
そのようには考えれらないでしょうか。
例えば、貧乏であってもきちんとした教育を受けられる制度があったら、収入は高くなったかもしれません。
親だけでなく、もっと他の優秀な大人たちとの交流の場があれば、考え方や生き方も変わったかもしれません。
親も勉強しないといけないという風潮が社会にあったら、もっと教育熱心になれたかもしれません。
しかし、実際にそうでないから貧乏な人は貧乏なまま。
頭の悪い人は頭が悪いままになってしまうのです。
社会が解決するべき問題を放っておいたから、理不尽によって苦しむ人が出てきてしまうのです。
理不尽は私たちに使命感を持たせるためのもの
理不尽は個人の問題ではなく、社会全体の問題です。
もし、理不尽をなくしたいのであれば、社会のシステムを変えていく必要があります。
理不尽というのは、そうした社会の歪みに気づくためのものなのかもしれません。
私たちが何か理不尽に苦しめられているのであれば、それは解決すべき問題であると知らされているのかもしれません。
理不尽のつらさは、それを実際に受けた者にしかわかりません。
しかし、だからこそ解決に向けての強い意志を持つこともできます。
二度とこの悲劇を繰り返してはいけない、と強く思うことができるのです。
理不尽をただ不合理な理屈に合わないものだと思い、不平を言うのは簡単です。
しかし、それでは何の意味もありません。
その理不尽にも、そしてそれを乗り越えた自分の経験も意味のないものになってしまいます。
もし、理不尽が強い使命感を私たちにもたらすために存在するものだと考えたらどうでしょうか。
今まで受け入れることのできなかった理不尽を受け入れることもできるのではないでしょうか。