なぜ生まれながらに格差が存在するのか?敗者の存在する意味を考える。
生きていると、他人との差が気になります。
「なぜ、私とあの人では能力に差があるのだろうか?」
「なぜ、あの人の家は金持ちで、私の家は貧乏なのだろうか?」
このような、本人の努力だけではどうにもならない差を感じることがあると思います。
なぜ、私たちは生まれながらに、このような不平等があるのでしょうか?
目次
なぜ、責任のない格差を受け入れなければならないのか?
もし、このような不平等が自分の招いたものであれば、納得もいきます。
「勉強をしなかったから、いい学校にいけないかった。」
「まじめに生きなかったから、ずっと貧乏なままだ。」
このような、自己責任で片づけられる問題ならば、仕方ないと思えます。
しかし、生まれながらの格差、環境による不平等というのは、自分の責任ではありません。
もし、前世というものがあって、悪いことをした報いというのならば、仕方ないかもしれません。
しかし、そんなものが存在する保証はありません。
そう考えると、このような不平等は、理不尽なものです。
なぜこのような責任のない不平等を受け入れなければいけないのでしょうか。
なぜ格差は生じるのか?
どうして、格差が存在するのか?
そのために、なぜ格差が生じるのかを少し考えてみましょう。
格差というのは、努力の差です。
ある人物が努力をして、ある人物は努力を怠った。
この場合、格差が生まれるのは納得いくでしょう。
では、この人物が子供を産んだとしましょう。
努力をした方の子供は、生まれた時点で有利な状況にあります。
親も努力の重要性を理解しているので、子どもにそのことを教えます。
また、質の高い教育や、成功のノウハウなど、いろいろな武器を与えられるでしょう。
一方、努力を怠った方の子供は、不利な状況で育つことになります。
当然、努力の重要性を教わることはないでしょう。
その状況で子どもが育てば、さらに大きな格差が生じます。
このようなことが数世代にわたって繰り返されると、努力した一族とそうでない一族の間での格差が、雪だるま式にどんどん大きくなっていくのです。
私たちが格差の責任を取らなければならない理由
ここで、一族を一つのチームとして考えてみましょう。
そう考えると、私たちが生まれながらにして、不平等な状況にあることの説明がつきます。
それは、努力を怠ったチームに生まれてしまったからです。
チームの責任は、連帯責任。
先祖の怠慢の責任は、子孫が果たさなければならないのです。
努力を怠った一族に生まれてしまったから、その責任を取らなければならない。
この考え方は、一定の説得力を持ちます。
しかし、それでも疑問が残ります。
それは、「なぜ私たちは敗者の一族に生まれなければならなかったのか?」ということです。
別に私たちが勝者の一族に生まれてもよかったはずです。
どうして、敗者の一族に生まれ、その一族の怠慢の責任を負わなければいけないのでしょうか?
その合理的な説明ができません。
敗者の一族に生まれるとはどういうことなのか?
やはり、どう考えても、私たちが敗者の一族に生まれてしまったことの合理的な説明はできません。
運が悪かったとしか言いようがありません。
そこで、考え方を変えてみましょう。
「なぜ、敗者の一族に生まれてしまったのか?」ではなく、「敗者の一族が存在する意味」を考えるのです。
もし、勝者が優れた存在であるならば、敗者は淘汰されるべきです。
しかし、現実として敗者も存在している。
ということは、何らかの存在する意味があるはずです。
敗者に生まれるということは、生まれながらに辛い人生を生きることになります。
その過程で、様々なことを体験し、考えます。
ひどい仕打ちを受けたり、理不尽な扱いを受けたり、屈辱的な待遇をされたり…
そうした辛い経験の中から、
「何とかしてここから脱出したい」
「現状を変えたい」
という強い思いが生まれます。
人間を動かすのは、思いです。
それが強ければ強いほど、その行動の影響力も強くなります。
つまり、辛い仕打ちを受け、「変えたい」という思いを強くすれば強くするほど、世の中を大きく変えることができるのです。
大きく変われば、辛い思いをする人も少なくなります。
そのような大きな変革を経て、世の中はどんどん良くなっていくのではないでしょうか。
勝者でも世の中をよくすることはできます。
しかし、それには敗者が感じ、経験してきた辛さや屈辱が伴っていません。
「何としても変えたい」という強い思いがないのです。
ですから、本当の意味で社会をよくできるのは、敗者なのです。
敗者にも存在する意味がある
つまり、ここまでの話をまとめると、以下のようになります。
・私たちは生まれながらに格差が存在する。平等ではない。
・それは、私たちに責任はないが、背負っていかなければならない。
・不平等に理由はない。たまたま敗者の側に生まれてしまっただけ。
・しかし、敗者に生まれることで世の中をよりよくできる可能性がある。
このように考えれば、敗者の側に生まれてしまったことにも、多少納得できるのではないでしょうか。
搾取されるだけ、淘汰されるためだけに生きているのではないと思えれば、生きる意欲もわいてくるのではないでしょうか。
それでも、「勝者の側に生まれたかった」と言われれば、それまでですが。
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