脱却できないバブル崩壊の後遺症。バブルとは何だったのか?
かつてないほどの好景気をもたらしたバブル経済。
当時は東京の地価だけで、アメリカ全土を買うことができるとも言われていました。
その好景気を忘れられず、バブルの再来を願う人も多いです。
しかし、バブルによって今の経済停滞がもたらされたという負の一面もあります。
デフレや不況は長引き、経済は回復の兆しを見せません。
では、どうしてこのような状況になってしまったのでしょうか?
なぜ、バブルは発生し、崩壊とともに日本経済に大きな傷を負わせたのでしょうか?
今回は、バブル経済についてみていきます。
なぜ、バブルは起こったのか?
そもそも、なぜバブル経済は起きたのでしょうか。
ことの発端は、1985年のプラザ合意です。
これは、米、英、仏、西独、日本の5か国がドルを引き下げ、円を引き上げることに同意したものでした。
貿易赤字に苦しむ米国の要請によって、締結されたのです。
円が上がってしまうと、今度は日本が苦境に立たされます。
日本は工業製品を作り、それを米国に輸出することで経済を回していました。
急に経済を支える柱を失ってしまったわけです。
この事態を受け、日銀は公定歩合を引き下げます。
金利を下げることで、企業の投資を活発化、それによって景気の回復を狙ったのでした。
日銀の読み通り、企業の投資は活発化、経済は順調に上向いていきます。
景気が上向くと、土地や株式などの資産の値段が上がります。
土地があれば、店や住居を立てることで、さらなる利益が見込めます。
景気とともに、企業の業績が上がれば、株式の値段も上がります。
景気のいい時は、このような金融資産、不動産資産の値段が上がるのです。
企業は、上昇する土地や株式を担保に、銀行から借り入れを行います。
そして、借り入れたお金でまた土地や株式を購入します。
このような連鎖が起こり、土地や株式の値段が実態以上にどんどん上昇していったのです。
バブルの崩壊
このような異常な事態を受け、政府は対策を講じます。
1990年には、大蔵省が不動産資産の総量規制を実施。
保有できる不動産資産に制限をかけたのでした。
これにより、不動産資産の需要が一気に減少。
それに伴い、価格も暴落しました。
その後、日銀も公定歩合を引き上げたことにより、バブルは崩壊しました。
実は、これらの対策は本当はもっと早くに実施する予定でした。
しかし、1987年にニューヨーク株式市場での株価の大暴落が起きました。
これをブラック・マンデーと言います。
これを受け、米国は日本に金利の引き上げを待ってほしいと要請します。
日本が金利を上げると、米国の資金が日本に流出してしまうからです。
日本もバブルを食い止めるために早く金利を上げたかったのですが、米国に気を使って、金利の引き上げを先送りしました。
結果的に、この判断がバブル崩壊後の後遺症をより深いものとしました。
バブルの後遺症
バブルの崩壊は、様々な問題を引き起こしました。
その中でも象徴的なのが、大手金融機関の相次ぐ経営破綻です。
1997年に三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券、徳陽シティ銀行の4行が破綻したのでした。
なぜ、このようなことが起きたのでしょうか?
金融機関はバブル当時、土地を担保に貸し出しを行っていました。
土地の値段が高いときは、それでも大丈夫でしたが、バブル崩壊とともに土地の値段は下落しました。
借り入れている企業も、すぐにはお金を返せません。
値上がりを予想して買った土地の値段も下がり続けていくので、返すアテもありません。
もっとひどいと、貸し付けた企業が倒産しているなんてこともあります。
つまり、バブル崩壊とともに、銀行は回収できない債権を大量に抱え込んでしまったのです。
これが、いわゆる不良債権と言われるものです。
この不良債権が、大きく膨らんでしまった結果、経営破綻を引き起こしました。
経営破綻にならなかった金融機関も、不良債権の返済に苦心します。
それにより、貸し出しが思うようにできず、経済は停滞します。
バブル崩壊からのデフレや経済停滞は、今も脱出できないままです。
バブルはかつてないほどの好景気をもたらしましたが、その反動は今もなお続いています。
今回のまとめ
・バブル経済のきっかけはプラザ合意。
・バブルの正体は、実体のともなわない価格の高騰。
・膨らみ切ったバブルの崩壊は、日本経済に大きな傷を負わせた。
・日本は、今なおバブルの後遺症から立ち直れないでいる。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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