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公開日:
最終更新日:2016/06/19

戦後の教育の歴史。日教組と文部省の対立

私たちは、義務教育と称し、9年間学校に通うことを義務付けられています。
最近では進学率も向上し、高校、大学と通えば16年間も教育を受けていることになります。

私たちの人生のうちのこれだけの時間を占める学校教育
では、これはいったい何なのでしょうか?
どのようにして作られたものなのでしょうか?
今回は、戦後の教育の歴史を見ていきます。

教育の歴史、文部省、日教組

日教組と文部省の対立

終戦後、日本には「戦争反対」「2度と戦争をしない」という世論が高まっていました。
その影響は、教育にも波及します。
そのような状況の中で生まれた組織が、日教組(日本教職員組合)です。
「教え子を再び戦場に送るな」をスローガンに、教育の民主化、民主国家の建設をその使命としていました。
また、この組織は教職員の労働組合としての性格も持っていました。

戦後の教育史では、この日教組と文部省がことあるごとに対立しています。
それは、なぜでしょうか?

当時は、冷戦真っただ中。
GHQ配下で、資本主義陣営としての性格を有する文部省
労働組合として立ち上がった、社会主義としての性格を有する日教組
当時の冷戦の行動と全く同じです。
両者の対立は、冷戦の代理戦争として、起こるべくして起こったというわけです。
それでは、その対立を詳しく見ていきましょう。

評価制度の導入

1965年、愛媛県のある学校で、教師の勤務評定のしくみを導入しました。
勤務評定とは、一般の会社では普通に行われていることです。
評価によって、給与やボーナスの額、昇進が決まったりしますね。

この制度は、教師にはありません。
教育の成果とは、すぐに測定できるものではないです。
また、教師は生徒と一緒にいるので、評価者が常に監視できないです。
このような理由から、教師に評価制度はふさわしくないとされていました。

日教組はこの評価制度に反対の姿勢を示しました。
一方、日教組と対立関係にあった文部省は、この取り組みを高く評価します。
評価制度を全国に拡大していく方針を打ち出しました。
当然、日教組は猛反発。
これによって、日教組と文部省の間で闘争が起こりました
日教組は、一斉休暇(ストの公務員版)を行い、これに抗議。
文部省は、講義を行った教員約6万人を処分しました。

日の丸、君が代をめぐる分裂

文部省と日教組は、日の丸君が代をめぐっても対立をしました。
「国旗である日の丸を掲げ、君が代を斉唱することは、当然である」というのが文部省の意見。
一方、日教組は「戦争のシンボルである、日の丸、君が代は戦争を認めること、助長することにつながる」と主張します。
また、日の丸が国旗であること、君が代が国歌であると規定されていないことも、反対の根拠としていました。

これを受け、文部省は国旗国歌法を制定するようはたらきかけました。
これは、日の丸が国旗であり、君が代が国歌であることを正式に規定した法です。
国旗国歌法の制定をもって、日教組は国旗掲揚や国歌斉唱に対する反対運動を中止しました。
現在も一部、反対運動を行っている人たちがいますが、文部省と日教組の国旗、国歌をめぐる対立は、公式には終了したことになっています。

和解

このように対立を繰り返していた、日教組と文部省。
しかし、その対立も終わりを迎えます。

きっかけは、ソ連の崩壊です。
これにより、社会主義に対する幻想が打ち砕かれます。
日教組の支持母体であった共産党や社会党が、国民の求心力を失ったのです。

支持母体を失った日教組は、文部省に迎合しようとします。
当然これには、内部の反発があります。
これにより、日教組は内部分裂を始めました。
後ろ盾がいなくなったことと、内部分裂。
日教組は文部省に対立するどころではなくなりました。
自分の存続が危うくなってきたのです。

これを受け、日教組は文部省と和解をします
しかし、これによって日教組は急速に求心力を失いました
1958年には教員の86%が加盟していた日教組ですが、2011年には26%にまで低下しています。

戦後長く続いてきた、教育をめぐる対立は終わったのです。

現在の教育の問題

戦後続いてきた、日教組と文部省との対立は収まりました。
しかし、適切な教育制度が確立されたわけではありません
では、現在の教育は、どのような問題を抱えているのでしょうか?
その一部を見ていきましょう。

教育委員会の形骸化

まず、教育委員会の形骸化が挙げられます。

そもそも、教育委員会とは何でしょうか?
教育委員会とは、地方自治外ごとに設置された機関です。
戦前の教育が政治的に利用されたことを反省し、教育と政治を分離することを目的としています。
そのため、当初は政治とは関係のない地域住民が選挙で選ばれる仕組みとなっていました。

しかし、政治的な対立が目立つようになり、方針が変更。
地方自治体の首長が任命する制度になったのです。
これにより、当初の目的であった、政治と教育の分離が果たされなくなりました。
政治的機能をになう地方自治体が、教育委員会を任命しているわけですからね。

これが、今問題になっている、教育委員会の形骸化です。
これにより、地域住民の教育への関心の低下が問題となっています。

全国学力テスト

全国学力テストでも問題が起こっています。
近年実施されている、全国学力テスト。
実は、以前にも実施されていたのです。

それは、1961年の話です。
当時は、全国1位だった愛媛と香川の競争が顕著でした。
健全な競争ならば問題はなかったのですが、そうではありませんでした。

学力の低い子を試験当日に休ませる
事前に試験範囲の授業を行う
試験中に教師が成果を示唆する
このような、本来の目的を損なうような不正が横行しました
これにより、1966年には中止されています。

今行われている全国学力テストでも、同じようなことが起こっています
当時の教訓から何も学べていないということですね。

今回のまとめ

・戦後の教育は、日教組と文部省の対立を中心に回っていた。
・日教組と文部省の対立は、教育の現場で起きた、冷戦の代理戦争。
・対立は終わったが、教育に関する問題は山積み。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」 池上彰教授の東工大講義 日本篇 (文春文庫)



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